朱の月

6話‐8‐

 懐かしい声が、聞こえるはずのない声がして、幻聴かと思ったのは一瞬だった。
 レオナに覆いかぶさっていた男の体が吹き飛び、優しく抱き起される。呆然としてる間に、肩に見覚えのある深緑の服を掛けられた。
「悪い、待たせたな」
 耳元で甘く囁くその声に、ひどく落ち着きを取り戻している自分がいた。彼を見上げる。
「ファイ……なんで…?」
「なんでって、絶対行くから待ってろって言っただろ」
 彼が言っているのは、街ではぐれたときのことだろう。勝手に攫われたのは自分なのに、保護対象でもないのに、こうして当然のように迎えに来てくれた。
 いつもみたいに馬鹿にしたり呆れたりするんじゃなくて、ただただ優しい穏やかな表情で。
 力強い声。懐かしい温もりと匂い。
 不安が一気に吹き飛んで泣きそうになって、ふと冷静になった。――正確には、冷静になって状況を振り返って取り乱した。
(わ、わわ私、服!! ふ、服!! それに、なに、私ファイのこと呼んだ!?)
 いくら不安で動揺していて兄が来てくれるとも思えなかったからって、なぜ彼の名を呼んだんだろう。
 今の自分の姿も、彼の名を呼んでしまったことも恥ずかしい。
「どうした。なにかされたか?」
「え、いや、」
 気遣いの色が強かったファイの瞳が細められる。引き寄せられるように顎を掴まれて、唇に、彼のそれが当てられていた。ほんの一瞬、軽く触れただけ。
 突然の行動に、息をすることも瞬きをすることも、突き飛ばすこともなにもできずに忘我していた。
 そのまま彼はレオナの腕を持ち上げ、手首にも唇を付ける。
「消毒だ」
 先に出たのはファイの真剣な、どこか怒っているようにも聞こえる言葉だった。彼はこちらを見ようとはせずに、立ち上がって怒りで顔を真っ赤にしている男に鋭い視線を向けていた。
 消毒? そう言われて思い出すのは男にされた口づけだ。レオナはそれを口にしてはいなかったが、どうやら無意識に唇を隠していたらしい。それに手首。押さえつけられていた時についてしまったのだろう、強い力で握られて指の跡がくっきりと浮かび上がってしまっている。
(消毒って……、なに言ってんのよ…)
 男にされた口づけ。
 ファイにされた口づけ。
 どちらも想い人であるジェイクにされたのではない、不本意なものである。それでも、不思議とファイにされても不快感などは覚えなかった。
「てめぇ…なに邪魔してくれてんだよ!」
「お前が手を出していいような女じゃないんだよ。………人がどんな思いで我慢してたと…、」
「なに言ってんだてめぇ! 侵入者が生きて帰れると思うなよ!」
 どこに隠し持っていたのか剣を構えた男に対し、ファイは不敵に笑って見せた。
「腹を立てているのはお前だけじゃないからな。肩慣らしでもしてやる」
 言って立ち上がったファイは、レオナを背後に隠しながら剣を抜いた。



「ちょ、ちょっとファイ様、一人で、先、行くの、やめてもらえますか、ね…!」
「遅かったな」
 ファイに遅れること10分程度、息を切らして現れたのはランカだった。意外にも額から汗を流し、以前に見たひらひらとしたスカートではなく動きやすそうなパンツ姿だ。
 何度かゆっくりと呼吸をして落ち着かせてからやっと顔を上げた彼女は、大きな目を見開いて固まった。
「なにしてるんですか、これ」
「俺の機嫌を損ねたから眠ってもらった」
 単純明快ではあるが近衛兵士としてそれでいいのかという返答に、彼女は呆れたように笑った。
「ファイさんて意外と血気盛んですよね。実力が伴っていれば文句も言いませんけど……って、レオナさん! 無事ですか!?」
 軽蔑するように無残に床に転がっている男を見ていたランカは、本来の目的を思い出してくれたようで腰を下ろしたままのレオナの側へ駆け寄ってくる。
 ファイの制服を羽織って髪も乱しているその姿で、なにが起こったのか悟ったのだろう。
 泣きそうに顔を歪めて、レオナを力いっぱい抱きしめた。
「遅くなってごめんなさい。でも、もう大丈夫ですからね。これもすぐ取ってあげます」
 言って身体を離したランカはレオナの手首に嵌っている腕輪を手に取り、腰にかけていた鞄から小さい道具を取り出した。そのまま真剣な顔で弄りだした彼女に、控えめに声を掛ける。
「ここ…どうやって探したの?」
 もう3週間近くは経っている。つまりそれほど見つけ出すのは大変だったはずだし、この建物にも見つからないように術をかけているに違いない。
 まさか虱潰しに広大なファーレンハイトを回っていたら見つけたとは言わないだろう。レオナは魔力を封じられていたのだから、自分を辿ったのでもない。
「どうしたのかは分かりませんけど、ミシェルさんが見つけて――って、ミシェルさんまだ来ませんね。意外と年ですからね、あの人」
「ミシェルも来てるの?!」
「あいつは一人でも平気だろ。早くここから離れるぞ」
 警戒を怠らずにファイが言う。
 彼が寝かせた男はいつの間にかレオナがいつも座っていた椅子に括り付けられている。どこに縄なんて持っていたのだろうか。かなり身軽な服装だし、腰に下げている剣以外に荷物を持っていそうにもないのに。
 制服の上着もレオナが借りて着てしまっているから、彼は今薄いシャツを1枚身に着けているだけである。そうなって見ると、彼の端正に鍛え整えられた身体に目が引かれてしまった。
 見惚れてなどいない、ただ珍しいだけだ。ジェイクは魔術師としては鍛えていた方かもしれないがそれでも筋肉質ではなかったし、一緒に生活していたユーリも華奢だ。そしてそれ以外に男と関わり合いになるなんてことはしばらくなかったから仕方ないことなのだ。
 いや、それを言ってしまえば王宮に通っていた頃、レオナの目も気にせずに鍛錬場ですぐ上半身裸になる兵士がいなかったわけではないので全くないとは言えないが、とにかく、他意はない。
「あの、まだ解除できてないんですけど…」
「それは後でいい。いつやつらが戻ってくるとも限らないからな。――今はここから離れるのが第一だ」
「でも、ここには魔術師も多いです。気持ち的にも体力的にも消費すると思いますし、レオナさんには術を使えるようになっていてもらった方がいいんじゃないですか?」
「解除にどのくらいかかる?」
 ランカは自分の手元とレオナの腕輪を見比べ、眉間を寄せる。
「5分程度でなんとか」
「待てない。どうしても解除してやりたいなら移動しながらにしろ」
 少し釈然としなさそうでも、ランカは はい と言ってレオナを放した。自身はさっと道具をしまって、ファイと同じように周りに視線を這わす。一瞬目に光が灯ったのは、きっと魔力を探ったのだろう。
 以前感じた彼女の魔力程度では恐らくこの古城内を探るので精いっぱいだろうが、無事にここから逃げることを考えれば十分だ。
 探れない程度の魔伎やそれ以外の人間ならばファイ一人でどうにかできる。
「あ、ミシェルさん分かりました。…多分ですけど」
「どこだ?」
「入口近くです。というか、裏口とかですかね? 入って来たところに近いですけど、違うとこです」
「近いなら道は分かるな。――歩けるか?」
 手を差し伸べられる。
「え」
 軟禁されていたから気遣ってくれているだけだ。しばらく運動だってしていなかったから足手まといにならないように声を掛けただけだ。
 ここで手を払っても不自然だろうとそのまま手を重ねた。
 自分で手を出したくせに意外だったのか、少し目を開いて微笑んだ。引かれて立たせてくれる。
 未練もなにもなく手を離して、小さく礼を言った。
「……なに」
「なにも?」
 なにが可笑しいのか肩を揺らして笑い出したファイを睨むが、全く気にしていないようだった。
 行くぞ と短く声を掛けて、ファイの先導で部屋を後にした。



 廊下には不思議と誰一人いなかった。元からヘヴルシオンの人数に比べて大きすぎる根城ではあるが、これだけ移動していて誰にも会わないというのは少しおかしい。
 今まで考えたことはなかったが、レオナの部屋に魔術がかかっていてもおかしくはない。せっかく連れてきた魔術師で、幹部たちはここを離れることが多い。もしレオナが自力で腕輪を外すことができたら――自力でなくてもいい、偶然に腕輪が外れるという事態が起こらないとも言えない――、恐らく簡単に脱出できる。
 よほど手の込んだ魔術でなければ時間はかかっても解除できるだろうし、ジェイクくらいの魔術師やガジェットくらいの腕利きでなければどうにか相手取れる自信はある。
 だからこそ、レオナが部屋を予定外に出たときにはすぐに分かるような術をかけているのではないかと考え付いたのだが、杞憂だったのだろうか。
いや、そもそもファイとランカが部屋に辿りつけたこともおかしいのだ。四六時中とまではいかずとも部屋の側に見張りらしき人物がいることも多いのだから、運よく見つからなかった――とは考えにくい。
「お前は余計なこと考えなくていい。鈍ってるだろうし、とにかく走れ。目ぇ覚ませ。ヴァリーにそんな顔見せたら笑われるぞ」
 こつんと額を叩かれる。
「目は覚めてますけど」
「そういう意味じゃないだろ」
「じゃあどういう意味ですかー」
「どんな意味でもありませんよー、うふふ」
 割り込んできたのはランカだった。なぜだか嬉しそうな彼女がレオナに近づくと、逆に少しファイが離れた。
 走るのに邪魔にならない程度に身体を寄せ、声を落として囁いてくる。
「元気出ました?」
「え……変、だった?」
「いいえ。心配して損しましたっ」
 ふふっと笑うランカだったが、その短い言葉でも随分と心配を掛けてしまっていたことが伺えた。冗談めかして言う彼女の横顔はなんとなく疲れが見える。
 ファイだって、彼はあれで責任感が強い。自分が離れた時にレオナが攫われたのだから、決して彼のせいではないのだが自分を責めたことだろう。
 不謹慎だ。不謹慎だと分かっているのだが、なんだか嬉しい。
 自分のことで心配してくれる人がいて、わざわざ助けに来てくれる人がいて、こうして無事を喜んでくれて。なんでもないことじゃない。少なくとも、レオナにとっては。
 だって8年前には、そんな人ミシェルしかいなかった。
 両親が亡くなって兄もいなくなった時、綺麗な顔を汚して、整えられた髪も美しい服もぐしゃぐしゃにして、壊れそうな表情で駆け寄って抱きしめてくれたのは、ミシェルしかいなかったから。
 一番近くて一番大事なジェイクは、すでにレオナの元を去っている。せっかく心を許せるようになって、弟のように思っていたユーリもヘヴルシオンだと言う。
 これまで1人でジェイクを捜して追ってきたレオナは、極力人との付き合いを避けてきていた。だから自分のことを思ってくれる人なんていないと思っていたのだ。
 緩んでしまう頬を止められなくて、少しでも誤魔化そうと下を向く。
「……ありがとう」
「なんですかー。王宮に戻ってからでいいですよ」
 笑みを零しながら言うランカに同意するようにファイが背中を叩いた。

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