定かな記憶ではない。
始まりがどんなだったのか、その経緯などは全く記憶にないから。
しかし終わりだけは鮮明に思い出せる。
鼻に付く強烈な臭い。自身を、両親を、過ごしてきた家を染め上げる赤。氷のように冷たい身体。どこにも姿が見えない兄。たった独りの自分。
次第にそれは正気を失わせていって、散々騒いで喚いて泣いて。そこまでいったら残ったものはなにもなかった。
―――
「そ、んな……嘘よ…」
「嘘じゃない」
「だって、だって! じゃあ父さんと母さんはなんで!!」
淡々と語ったジェイクの話だが、そう簡単に信じられるような内容ではなかった。でも兄が嘘を吐かないということはよく知っている。
だからこれが彼の知っている真実なのだと、認められなくとも信じるしかなかった。
でもレオナの知っていることは、レオナが実際に触れたことは、彼が言っていることとは違うから。
「だから僕はここにいる」
「いや、でも…だって……!」
混乱してしまって上手く話せない。
元王宮専属魔術師だった両親は14年前に何者かに殺され、その時に兄は誘拐された。それによってレオナが受けた心の傷は深く、両親の命日が近づいた夜は独りになるのが怖い。
そういう体験や記憶を思い出して余計に兄を強く求めていたのだが、それは自分だけの記憶だった。
幼くてあまり鮮明に事件のことを覚えていないレオナとは違い、ジェイクははっきりと覚えているだろうし、彼はその後誘拐までされている。そこからレオナの元に戻ってくるまでの時間、どこで誰に何をされていたのか 彼は決して話さなかったが、辛い思いをさせられたのであろうことは容易に想像できる。
その真実が、彼の言う通りならば――…。
「強要はしない。僕はレオナにこちら側に来て欲しいとも思わないよ」
取り乱したままのレオナを一瞥してジェイクが立ち上がる。
「ただ、レオナの元には戻れない」
「――っ兄さ、」
「はい しゅーりょー。兄妹水入らずの時間は幸せだったー?」
止めようとしたレオナの意志を挫くようにキーラが現れた。
動きを止めてしまったその一瞬にジェイクはキーラの脇を通って部屋を出て行ってしまう。
声を掛けなきゃ、彼が行ってしまう。行ってしまうのに、なんて言ったらいいか分からない。だってもう彼の意志は決まっているから。レオナよりも復讐を選んだのだから。
キーラの揶揄するような声にも返答する気力がなかった。
「もっしもーし、聞いてますぅ?」
からかう気満々の彼女に目の前で大げさに手を振られる。さすがにムッとして言い返そうと口を開けたら嗚咽が漏れそうになって、急いで俯いた。
ジェイクの前で泣けない。もう、こちらを見てはくれないけれど。
爪が食い込むほど強く手を握り、歯を食いしばる。
「…もう出てって」
「言われなくても? あたしもこれでも忙しいもんで。んじゃ、またねん」
励ますのではなく追い打ちをかけるかのように肩を叩かれて、些か気分が良くなっている様子のキーラもジェイクを追って部屋を出て行った。
一人残された部屋で、音もなく膝から崩れる。
ずっと追い求めていた兄は自分のところに戻ってくることはない。想いを告げられることもないまま、ただ拒絶されてしまった。
「じゃあ…なんで優しくするのよ………。戻ってきてくれないなら…私のものになってくれないなら優しくしないでよ………笑い掛けないで……」
嬉しかったくせに。
彼が自分のものにならないことなんて初めから分かってる。でも捕らえられているレオナに会いに来てくれて、笑ってくれて、優しく触れてくれて。それがなによりも嬉しかったくせに。
諦められないままでいるのがつらい。でも告白もできない。
彼に拒絶されたらこの世に未練なんてないと思っていたけど、やっぱりジェイクにまだ会いたい。彼がこんなにも愛おしいのに、自分から彼のいない世界にいくなんて無理だったのだ。
これからどうすればいいんだろう。
ジェイクはレオナとの関わりを避けているようだったし、ユーリはもう前とは別人だ。ミシェルに行方以外のジェイクの相談はしたくないし、ファイやヴァレリオにも言いにくい内容だ。
誰に相談すればいい? 誰かに聞いてもらわないと、もう爆発しそうなのに。
―― 疲れたな。
ふと気を緩めると、溢れてきたのは涙ではなくて笑いだった。
静かな部屋に響き渡る自分の笑い声を聞いて、狂っちゃえばいいのに と思った。
ジェイクと会ったその日から微笑すら作らず、極力口を開くこともせず、食事も取らなくなってしまったレオナは、ただの人形のようにそこにいるだけの時間を過ごしていた。
朝食の席に現れなくなったレオナの元へは逆にユーリが訪ねてくるようになり、彼はレオナの変化は意に介さず以前と全く同じように接してきた。返事しようとしなかろうと、ヘヴルシオンへの勧誘と国への疑心を煽るような話をひたすらしてくる。
反応を求めない彼の話は意外と苦痛には感じない。言葉を返さなくていいのだ。真剣に聞いてやることもないそれは、自分を無音の世界から救ってくれているとすら感じてしまった。
この日もそうやって訪ねてきたユーリの一方的な話を聞きながら、美味しくもない食事を無理やり食べさせられて終えたところだった。
「俺はさ、孤児なの。それはほんとのほんと」
“孤児”。その言葉に顔を上げた。
セラルト領で出会った彼。その出会いも脚本通りのものだったのだろうが、彼に両親がいないという点は事実だという。それは、レオナも同じだ。
血の繋がった兄がいようとも、もう彼はレオナのことを見捨てているのだから。
「俺、魔伎だって言ったよね? でもそれにしては変だと思わない? 俺のこの容姿」
ちらりと髪へ視線を投げる。その疑問は彼から「自分は魔伎だ」と言っている言葉を聞いた瞬間から抱いていたことだったから。
彼は灰色の瞳に紫がかった白髪と言っていいような色素のない髪色をしているのだ。魔伎は紫の瞳に銀の髪。異なっているというよりも全くの対照的なそれは、魔伎だと言われても信じられるものではない。
それに、あんなに一緒に生活して行動を共にしていたのに魔力を一度も感じなかったのだ。どんなに抑えようとしていても、直接触れてしまえば確信を持てるほどには見破れる。
でもユーリからは感じなかった。起きていても眠っていても、怒っていても笑っていてもなにをしていても。
「俺は一般的な魔伎とは容姿から違うでしょ? でも魔伎なんだよね、ちゃんと両親とも。ま、俺は後から聞いただけだから事実かは知らないけど」
初めて聞くユーリの過去。気にならないといえば嘘になるが、そんな話聞いている場合ではなくて早く一人になりたいのも本心だった。
彼はレオナの反応を十分すぎるほど待って、何も言わずに頬杖をついた。目は見ることができない。
「興味ないんだったらいいや。俺も別に話したいわけじゃないし。ただ、俺も国を恨んでるからこうしてここにいるんだってこと。例外もいるけどね、トリスとか、力の弱い魔伎とか。でもさぁ、レオナもこれまでみたいに“ファーレンハイトが好き”なんて…言えなくなったんじゃない? 大好きなジェイクが傷つけられてんのに、好きなままでなんていられないよね?」
あぁ、もう、黒い感情が止まらない。
だから、そうならないように感情を遮断して過ごしてきたのに。
ジェイクやヘヴルシオンの話だけ聞いて素直に信じるわけにはいかない。ヴァレリオか…せめてファイに真偽を問うてからだ。
「――……るさい。兄さんの名前出さないで」
「そんなこと言っていいの? 俺が会わせてあげたんだけど」
「頼んでない!」
だって今まで自分の力で会いたいと思って捜していたのだから。ヘヴルシオンに目を付けられて、誘拐されて、それで会わせてもらったなんて、喜べるわけがない。いや、嬉しかったのは事実だが、それがああいう結果ならば会わない方が幸せだったのかもしれないとまで思い始めていた。
「あ、そう。いっこ言っといてあげる。知ってるだろうけど、俺子どもだから。機嫌損ねたらどうなるかわかんないよ?」
冷たい凍るような視線だが、今のレオナには感情の逆撫でにしかならなかった。
「だから? もうこれ以上状況が悪化することなんてない。好きにすればいい」
それから1週間、ユーリがレオナの元を訪れることはなくなった。
その日は少し様子が違った。
言葉を交わすことはなくともいつも食事を運んでくるのは同じ魔伎だったので、他の人間が呼んでいるその名を覚えるくらいにはなっていた。その魔伎はレオナと口を利くことを禁じられているのか、興味深そうにこちらを伺ってくることはあっても、食事を置いて、しばらくしてからそれを回収しに来ることしかこの部屋で起こす行動はなかった。
力の弱い魔伎だと判断できる彼女は、自信がなく、ただ物静かな印象だ。そんな彼女がどうしてヘヴルシオンにいるのか不思議に思ったこともあるが、魔伎だということでなにか辛い目にあったことでもあるのだろう。
レオナはたまたま力が強かったり、ジェイクやミシェルが側にいてくれたりでそういう経験はないが、噂では耳にしたことがある。専魔師が王宮で確固たる地位を築いているのを妬んでいる人間がいるらしいと。
食事を盆に乗せた彼女が現れたのは、普段よりも少し早い時間だった。それだけでなく彼女の態度が少しおかしい。背後を妙に気にして、罪悪感を顔に張り付けて、心なしか手が震えているようにも見える。
「早く入れ!」
低く掠れている声とともに、見たことのない男が入ってきた。見たところただの人間だが、レオナに面識のない者――しかも男が訪ねてくることなんて今までなかった。
男はレオナを見てニヤリと笑い、なにかを聞く。ただコクコクと首を縦に振った彼女に、男はさほど強くはないのだろうが蹴りを入れた。
「だったら早く行けや」
完全に怯えている彼女は扉の側の机に盆を置いて、足早に部屋を出ていくのだが、最後に真っ直ぐにレオナの瞳を見た。ただしそれも一瞬のことですぐに顔を逸らしてしまったが。
そうなると部屋にはレオナと男だけで。
「あいつの妹がこんないい女だったとはなぁー。俺らには教えられないほどの上客だって? なぁ。強ぇ魔術師だからってお高くとまりやがって…」
ジェイクのことを言っていることはすぐに分かった。彼が下位の人間に高圧的に出るとは思えないが、自分より年下の男が幹部なのが面白くないだけだろう。
しかし魔術師でもなければ軍人でもなさそうなこの男が、ジェイクと正面から戦っても勝てるわけがない。そうして溜まっていた鬱憤を晴らしにきたということか。
冷めた目で男をねめつけるが、彼を煽るだけにしかならなかった。
目の前まで来た男はレオナの襟首を掴んで無理やり立たせると、そのままベッドに投げられる。
「ずっとこんなとこにいちゃ退屈だよなー? 相手してやるよ」
(ふざけんな…!)
身体を起こしながら、殺すまではいかなくともしばらくベッドから離れられなくしてやる と手を前に出して、固まった。
目に映ったのは、血のように紅い石が嵌められ、黒と金で造られている腕輪だ。
今更失念するという間抜けっぷりに呆然としてしまったその一瞬に、頬を張られて再びベッドに沈む。
「何しようとしてんだよ。あ? 魔力使えなけりゃ、てめぇもただの女だろ」
覆いかぶさってきた男を見上げる。
多分さっき聞こえなかった彼女との会話は、これのことを言っていたんだろう。レオナは本当に魔力が使えないのかの、確認。
罵声でも浴びせてやろうかとしたら、唇を重ねられた。
唇に当たる生暖かい感触と目の前にある男の顔に一気に嫌悪感と強い吐き気を感じて、思い切り男の腹を蹴った。
「っ、てめ…!」
再度頬を殴られて口内に鉄の味が広がる。男に両手首をきつく押さえられ、抵抗しようにも力が出ない。ファイに護身術を習っていたのに、まともに食事していなかった身体では一人の男を振り払う力もなく、その成果を出せることもない。
男はそのままレオナの服を乱暴に引きちぎり、胸に顔を寄せた。
肌に当たる生温い息が、肌の上を滑るざらざらとした舌が、何もかもが気持ち悪い。
「可哀想になぁ。せっかく兄貴がここにいるのに、助けに来てくれないんだろ?」
「うるさい…!!」
蹴ろうとしても上から押さえられた足は動かない。殴ろうとしても拘束している手は外せない。
抵抗できないレオナを見下ろして自分の優勢を確信した男は、ニヤニヤと笑ったまま手を太股へとおろしてくる。もったいぶるように、ゆっくりとその手を動かす。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……!! 兄さん…助けて……兄さん!)
その時、ふっとユーリの顔が浮かんだ。
――俺子どもだから。機嫌損ねたらどうなるかわかんないよ?
まさか、ユーリがこの男を仕向けたのではないだろうか。いや、さすがにこんな真似はしないと思いたいが、今のレオナは彼をどうしても信じきれない。
そして彼が関わっているのなら、ジェイクは絶対に現れない。
(やだ! そんなことない! 絶対にない!! 兄さん! 兄さん!!)
男の手が太股を撫でまわし、下着に、手を掛けた。
「―――っファイー!!」
「呼んだか?」