朱の月

6話‐6‐

「おはよ、レオナ」
「おはよう、ユーリ」
 力のない表面だけの笑顔で挨拶を済ませ、もう覚えてしまった自身に与えられた席に着く。
 すぐに目の前には食事が運ばれてきて、静かに2人だけの朝食が始まった。
「今日はちょっと俺出掛ける用事あるんだよね。レオナも行く? トリス一緒でよければ」
「行かない」
「つまんないのー。俺あいつと2人 やなんだよね」
 行儀悪くフォークで芋を突きさす。その仕草がレオナの知っているユーリそのもので、つい目を逸らしてしまった。しかしその心情を悟られたくもなくて、すぐに目の前のパンに手を伸ばした。
 会話が続かないなんて、ユーリと一緒にいて初めてのことだ。
 いつもなんてことない小さい出来事を話してはお互い馬鹿みたいに笑っていたのに、今は心から笑えるような気持ちにはならない。
 本当は室内に閉じ込められるのには飽きたし、突破口を開くためにも外に出られるというのは好機だとは思う。
 それでもユーリと一緒は無理だった。一緒にいればどうしても王都での暮らしを思い出してしまうし、それと同時に彼に裏切られていたという思いも蘇ってしまうから。
 ガジェットがいれば自由もないしどうせ逃げられないのだから、それだったら籠っているのと何ら変わりない。
 そうして、ユーリとなるべく関わらないように感情を荒立てないように ただ淡々と生きているだけの時間を過ごしていた。自分に用意された部屋に籠っていれば、訪ねてくるのはユーリが1日に何回かと暇を持て余しているらしいキーラが大体1日に1回、そしてユーリと共にするとき以外の食事を運んでくる魔伎くらいだ。
「ねぇレオナ。ちょっとは気変わった?」
「変わらない。私はヘヴルシオンに手を貸さない」
「そう? でもさ、レオナの大好きなジェイクはちゃんと働いてくれてるよ。自分の好きな人が選んだ居場所に、自分だって一緒にいて同じ時間を過ごしたいと思わない? もう8年も会ってないんでしょ。でもここにいればほぼ毎日会えるし、なるべく一緒にいられるようにしてあげる。
独りになってたレオナにさぁ、国がなんかしてくれたの? 専魔師として国に尽くしてきた両親の不幸があったって、なんにもなかったでしょ? 元専魔師なんて、どうでもいいんだよ。所詮俺らは国の都合のいい道具でしかないの」
「――……そんなこと、」
「じゃあなんでジェイクはここにいるんだろうね?」
 一方的に畳みかけるユーリの言葉。
 そんなことないと、絶対に違うと言ってやりたいのに、完全には否定することができない。だって、確かに両親が死んで兄が消えて独りになった時、国からの助けは一切なかったのだから。
 元専魔師だった。それも父は専魔師長だった。なのに、彼らの死を悼むような言葉も犯人を捜すような手配もなにもなかった。
 それに両親を尊敬していたジェイクがその彼らが望まないだろう組織の一員として席を置いているのには、それだけの理由があるのだ。以前の彼は無暗に人を傷つけたり悪く言うのを嫌っていた。ちゃんと真剣に向き合って、考えていることを聞き出して理解して、それでも否定しなかった彼が、国を否定している。
「――――ご馳走様」
 きっとユーリは心を乱しているレオナの様子を満足そうに見ているんだろう。
 そんなユーリは見たくない。
 味のしない食事の大半を残し、レオナは逃げるように食堂を後にした。



 レオナが動かなければなんの物音もしない静かな部屋。
 時間を潰すものなんてなに一つない殺風景な部屋。
 すっかり慣れてしまったこの部屋の端に置かれた椅子に腰かけ、天を仰いだ。椅子が少し軋んだ音を立てる。
 ここにいると何に対しても疑心暗鬼になってしまう気がする。毎日ユーリからちくちくと胸を刺すように洗脳されるように勧誘されていたらそうなってしまうものだろうか。
 ファイに会いたい。ミシェルに、ヴァレリオに、ランカに、会いたい。
「――兄さん……会いたいよ…」
 ヘヴルシオンにいるのに、未だに会えていない兄。
 彼はこの組織のことをどう思っているのだろう。国に対して、なにを感じているのだろう。
 ユーリの言うように、ただ国に憎しみや理不尽さを感じているのではないと思いたい。なにかそれとは別にここに居続ける理由があるのだと。
 彼の考えていることは、寂しくもあるのだが昔から全く分からなかった。表情をあまり変化させる方ではなかったし、言葉だって多くは発しない。それでもレオナのことを妹としてでも大切に思ってくれているのは伝わっていたからさほど気にしていなかったが、今となってはそうはいかないのだ。
「あたしだけどー」
 ノックの音とほぼ同時に扉が開き、また一番と派手な格好をしたキーラが入ってきた。
 ここ何日かで分かったことだが、彼女はストレスが溜まれば溜まるほど派手な格好をするようだ。服から始まり、今日のように髪色を変え、更には容姿まで変える。レオナが容姿まで変えたキーラを見たのは一度だけだが、その時のユーリの反応からなんとなくその法則を理解した。
 今日は深い蒼に染めた髪で現れたキーラは、やはりイライラしているのが見て取れる。
 この様子だと八つ当たりされるのではないかと心配になるが、それはどうやらユーリにきつく禁止されているらしいので安心しろとガジェットに言われたことがある。
 本当かどうかも分からない言葉ではあるが、それを信じていないとこの状況は少しどころかかなり怖いのだ。普段から突拍子もない行動をする彼女だ。ユーリの言う通りに組織に入ることもせずお守を命じられているらしいレオナなど、魔力が封じられている今、赤子をひねるように簡単にいたぶれるだろうから。
「辛気臭っ。なんなのここ、葬式でもやってるわけ?」
 不機嫌になんの変化もない部屋を見回し、扉の側に背を預ける。
 いつもなら暇つぶしに来ることがほとんどなので、レオナの側に座って脈絡もない話を一方的に聞かされることばかりだった。今回はどうも様子が違うので警戒心を抱く。
「あー、別に警戒しなくていいわよ。妹ちゃんにイラついてる訳じゃないし」
 するとおもむろに彼女は背後に目をやり、
「10分だから」
 と言い捨てて出ていく。なにをしにきたのか分からないと首を傾げると、彼女が消えたそこから別の人物が入ってきた。


 一見旅装なのではないかというなんの飾り気もない質素な服。実際なにかの任務にでも行っていたのだろう。少し疲れの見える顔でありながらも、レオナの大好きな透き通るような優しい瞳は変わらない。そして、レオナと同じ美しい銀の髪。


「レオナ」
「――っ兄さん!!」
 優しい笑顔だった。ずっとなにかある度に思い出して、レオナを支えてくれていた不安も何もかも包み込んでくれるような、温かい。
 久しぶりに呼ばれる自分の名は、彼が口にするだけで全く違って聞こえる。一瞬止まったのではないかという心臓が息を吹き返したように激しく動き出す。
 もうなにを考えるでもなくレオナは駆け出していた。
 迎えてくれる兄の胸に飛び込み、強く抱き付く。
「兄さん……兄さん………!」
 少し背が伸びた。体つきががっちりした。顔つきもさらに大人びた。
 でもお日様みたいな温かい落ち着くような匂いは変わってない。レオナのことを見守ってくれている、優しい眼差しも。
 本当にジェイクなのだ。レオナがずっと8年間、片時も忘れずに探し続けていた、たった一人の肉親でたった一人の愛しい人。
 一向に離れようとしないレオナを咎めることなく、声を掛けるでもなく、触れるか触れないか程度に背を撫でてくれる。その宥め方も懐かしくて、我慢しなければと思いながらも涙を堪えることができなかった。
 会えて嬉しいからじゃない。会いに来てくれなかったことに対する淋しさでも、怒りでもなくて、ただ身体の底から湧き上がるような愛しさのせいだった。
「なんでずっと会いに来てくれなかったの? 私、ずっと兄さんのこと捜してたんだよ?」
「うん、知ってる」
「突然いなくなっちゃうから、気が狂いそうだったよ?」
「レオナは強いから大丈夫だろ」
「大丈夫なんかじゃなかった…!」
 目に涙を溜めたまま顔を上げると、ジェイクの顔がすぐ目の前にあって思考が停止した。
(ど、どうしよう、兄さんが近い! っていうか私なにどさくさに紛れて抱き付いて…! でも兄さんの匂い変わらなくて安心する………って落ち着いてる場合でもなくて!!)
 急に取り乱し始めたレオナの様子に、ジェイクはきょとんとしながらもすぐに微笑んで涙をぬぐってくれる。
 自然に甘やかしてくれる彼。
 愛しくて愛しくて、どうしたらいいかわからない。なにがしたいのかもわからないけど、彼の側にいることが自分の幸せだと確信していた。
「ねぇ兄さん、ヘヴルシオンなんてやめようよ。私とまた2人で暮らそう?」
 縋るように言うと、彼は目を僅かに細めてそのままレオナを離す。
 その動作だけでジェイクが一線を引いたのが分かった。彼はレオナの願いを聞き入れるつもりは全くないのだと。
 ジェイクは穏やかで大人しそうな外見とは裏腹に、非常に頑固なところがある。基本的には行動を共にする人物にゆだねることが多いのだが、どうしても譲れないと決めたことはなにがあっても折れない(レオナが昔泣いて駄々を捏ねたことがあったが、優しく慰めてくれながらも意志を変えることはなかった)。
 レオナも自分は頑固だと思うのだが、彼のことを思うと大したことないと思う。
「少し座ろうか」
 言って部屋に一つしかなかった椅子をもう一つ出現させる。
 彼はそのまま腰掛けるが、レオナは座る気にはなれなかった。座ればいつものように諭されるに決まっている。ジェイクがヘヴルシオンを抜ける気がないこと。自分のことは忘れてほしいということ――それか、レオナもヘヴルシオンに入れと。
 なにを言われようと、レオナにとって喜ばしい内容ではないことは確かなのだ。
 椅子を見つめたまま動かないでいると、感情の読めない声で彼がレオナの名を呼ぶ。
 不貞腐れながら視線をちらりと上げる。そこにある大好きな微笑を見てしまったら、これ以上逆らうことはできなかった。
 完全に惚れた弱みである。
 恋心を理解するまでは言えていた我儘や反抗心は、今や見る影もない。彼に微笑まれるだけで首を縦に振りたくなってしまうから。
 そうして今回も渋々ながら彼を困らせたくないという気持ちが勝り、簡単に言ってしまえば笑顔に負けて、時間をわざとかけて向かい合うように腰をおろした。
 「僕はかえるつもりはないよ」
 “帰る”なのか“変える”なのかどちらとも取れるような言い方だった。どちらにせよレオナにとっては良くない内容に過ぎない。
 彼はレオナとの生活に戻るつもりはないのだと。
「なんで…? 私のこと嫌いになった?」
 こんなこと聞いてどうするのだろう。
 違うと否定して欲しいのだ。それで彼の意志を変えられずとも自分を慰めようとしている。ジェイクはそういうつもりで言っているのではない。ジェイクが自分を見限って出て行ったのではないと分かって言っているのだから。
 それでもし肯定でもされたら死にたくなるのに。
「そうじゃない」
 ほら、兄はちゃんと否定してくれた。そうやって兄の優しさを利用してどうにか可能性を見出して自分を保っている。
 そんな汚い自分に内心で嘲笑する。
「僕は父と母を尊敬していた」
「私だって尊敬してる! 思い出がいっぱいあるわけじゃないけど、私だって父さんと母さんのことは大好きだった!」
「レオナは知らないからね」
「知らない……って、なにを…?」
 綺麗な銀色の瞳を闇に染めて、口元だけ笑った。
「14年前のあの日、父と母が殺された日のことを」

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