戻ったそこに、彼女の姿はなかった。
きっと待ちきれずに近くの露店でも覗いているのだろう。――そう思えたのはほんの一瞬だった。
唾棄したい気持ちを抑える代わりに盛大に舌を打ち、人ごみをかき分けて走り出した。
彼女に待っていろと伝えたそこには、少し前に貰って大事そうに抱えていた小さい菓子が、地面に無残に散らばっていた。
鼻孔をくすぐる甘ったるいような香り。
どこかで嗅いだことのあるその香りの中に、どうしてか懐かしく恋しいジェイクの面影を感じ、レオナの意識は覚醒した。
暗い。
室内にいるようだが、カーテンが閉め切られていて夜なのか昼なのか分からない。少し空気が乾燥していて、若干汗ばむくらい暑い。
汗を拭いたいところなのだが、それも叶わず息を吐いた。
まずは落ち着いて状況を把握しなくては。
周りを見まわそうと視線を泳がせたとき、場にそぐわない明るい声とともに扉が開いた。
「もーなんなのあいつ、あたし無理。絶対無理。なにがあっても無理。仲良くしないと世界が今日で終わるよーって言われても無理。生理的に無理」
扉から差す強い光に目を細める。姿は見えない。が、もうその声を聞き間違えることはない。
「あらん? 妹ちゃんおーはよー。気分はどぉ?」
「…最悪」
「えぇー? ま、それもそっか。ここしみったれてんでしょー。気分まで落ち込むわ」
彼女の気分が落ちることなんてあるのだろうか。
その言葉は心の中に留めておいて様子を見る。キーラは忌々しそうに吐き捨ててから、指を一つ鳴らした。刹那、なんの灯りもなかった室内に温かい光が満ちた。
強すぎない光に、今度は目を細めるまでもなかった。
今では髪を元の銀色に戻し、相変わらず露出の多い服を着ている彼女以外には、部屋に誰もいない。殺風景の室内はレオナが座らされている椅子と、しばらく使っていないのだろう腐りかけている机が一つあるだけだ。
キーラはレオナの眼前まで近づき腰を屈めると、唇を歪める。
「ごめんねぇー、抵抗しなければ解いてあげるからさ」
そう言って彼女が視線を落としたのは、レオナの自由を奪っている縄だった。さらにレオナから目にすることはできないが、手首には魔力を封じる腕輪が嵌められているのが感じられる。
よく考えなくても分かる。自分はヘヴルシオンに誘拐されたのだ。
目的はさっぱり分からない。兄を捜しまわったりキーラの邪魔をしたりするのが邪魔だと思われたのなら、誘拐などせずに殺してしまえばいいのだ。わざわざ生かして連れてくるなんて、たとえ魔伎がいたとしても手間には変わりないのに。
それを生誕祭で人が溢れかえっている時を狙ったのはどういうことだろう。まさか偶然ということはないだろうし。
それに――
「ユーリは…ユーリはどうしたの…」
彼女を自分の連れだと言っていたユーリ。目の前でレオナが攫われていて彼が大人しくしているはずがないし、キーラが放っても置かないだろう。
「いるよん? あぁ、大切なオトモダチだもんねー」
「どこにいるの? ユーリに会わせて!」
しらばっくれているように聞きたいことに答えようとはしないキーラに切迫すると、途端に不機嫌を露わにした。
「うるっさいなぁー。喚いてんじゃないっつの」
顎を乱暴に掴まれる。
「あんた、なーんも知らないもんねぇ。連れてこいって言われてるから連れてってやるけど、あたしはいつでもあんたのこと殺せるって忘れないほうがいいよん?」
顎を放されると、彼女の一瞥でレオナを縛っていた縄が切れる。
身体は自由になったが魔力を奪っている腕輪は外れない。さらに側にはキーラが着いていることだし、不意打ちで逃亡を図っても成功する可能性は低いどころか存在しないだろう。今は感じることができないが、逃げる素振りがなくともなにかしらの術をかけているのは間違いないのだから。
ユーリがいるという部屋へはそう遠くないらしいのだが、遠くないと言ってもここの規模からしたら、ということらしいのには割と早い段階で気付いた。
部屋の中にいる時には分からなかったが、広く長い廊下と、点在する扉、それらの造りなどから見るに、恐らく随分と昔に廃れた城にいるようだ。造りで検討を付けるなんて、王宮に出入りする前だったら気付かなかったことだなと呑気に自分に感心する。
ファーレンハイトに古城なんてあっただろうか。王都に来るまでは国内の様々なところを回ったのだが、それらしいものは見たことも聞いたこともなかった。
ここが彼らの拠点なのだろうか。
断定はできないが、これほど大規模な場所を確保しているのならあながち的外れではないように思う。
しかし広いファーレンハイトのどこかも分からないここから、ユーリを連れて無事に逃げることができるだろうか。まず、自分は今魔術が使えないのだ。それをどうにかしなければ。
斜め右を歩いていたキーラが一つの扉の前で足を止めた。レオナのことは見向きもせず、半ば叩くようにノックをして声を掛ける。
「あたしだけどー」
そのまま返事も待たずに扉を開く。
考えていなかったが、ここは彼らヘヴルシオンの住処(であろう)だ。ということは、ヘヴルシオンの一員であるジェイクも当然ここで生活しているはずだ。
捜し出せたとは言えなくとも、彼に会えるかもしれないという期待は今の状況を軽く忘れてしまうには十分すぎるほどだった。
しかしそれも、扉が開いた先を見て瞬時に忘れ去った。
「ユーリ!」
部屋の真ん中に鎮座している椅子に座っているのは、間違いなく街で一緒に連れられたユーリだ。彼の側には、見張りなのかガジェットが気怠そうに立っている。
レオナの声に俯いていたユーリがゆっくりと顔を上げる。
大丈夫、見た感じでは外傷もないし、意識もしっかりしていそうだ。彼の瞳がレオナに向けられ、ふっと緩むように笑顔を見せた。
「もうだいぶ慣れた? 結構元気そうだね」
「…え? なにが、」
「それ。初めての時は気持ち悪そうにしてたじゃん。でももう3回目にもなれば効かないことはなくてもやっぱ慣れちゃうもんだね」
顎でレオナの腕を示したと思うと、立ち上がって自由な両手を思いっきり空に伸ばす。
彼の倍ほどもあるガジェットになにか話し掛けているが、聞こえる距離と声量であるにも関わらず、レオナの耳にはなにも入らなかった。
いつか感じたことのある嫌な感じ。胸に鉛が沈んでいくような、呼吸が苦しくなるような。
もうこれがどういうことなのか、彼がなにを言っているのか、分かっている。
分かっていても、心がついていかない。
「ちょ……ね、嘘だよね? 冗談だよね?」
嘘じゃない。冗談なんかじゃない。
これは、現実。
「はっきり言ってあげようか。俺、ヘヴルシオンの幹部なんだよね」
ともすれば倒れてしまいそうな身体をなんとか意識して支え、小刻みに震える手を強く握って誤魔化す。
身体の芯から指先まで凍り付いてしまったようだ。
「全く疑ってなかった? 俺としてはファイとかその師匠っていう女とか、ちょいちょい疑ってきてたから内心落ち着けなかったんだけど」
全く疑ってなかった。疑うなんて意識は微塵もなかったのだ。
初めてできた弟のようで、いなくなってしまった家族の穴を埋めてくれる新しい家族のようで。孤独を心のどこかで恐れていた自分には、彼の存在を否定するようなことができなかったから。
「……な、んで………私の側に…、」
震えかける声にわざと気付かないようにしているのか、いつもとなにも変わらない口調で続ける。
「ジェイクの妹だからね」
「…兄さんの?」
「知ってるでしょ? 俺らは魔伎を集めてるの。それもできるだけ強い魔術師を。でもさー、ほら、あんまりそんな魔伎っていないじゃん。専魔師に取られてたりとか。でも大体魔力の強い魔伎の血縁は揃って強い。で、うちにいる魔術師の血縁はーってなるのは当然だと思わない?」
魔伎の数は少ない。しかし血縁者同士ならば大方 居場所が分かっているか、もしくは連絡手段くらいは持っている場合が多い。
レオナは自身が進んでジェイクのことを捜してヘヴルシオンに関わろうとしていたし、彼と血の繋がっている妹ならばほだされる可能性もあったし、都合のいい存在だったということか。
「ということで。レオナ、俺らの仲間にならない?」
おかえり と迎えてくれる笑顔と同じだった。
少し怒ったように頬を膨らませた後、すぐに破顔するのと同じ。
「………ないでしょ…。なる訳ないでしょ! ヘヴルシオンは人を殺めてる! 関係のない人もマウロさんも!! 私は国に不満なんてない!」
「ほんとに?」
「本当よ!」
「ただの人と俺らと、全く違う生き物だとは思わない? 魔力ないのって不便だなって、思わない? 逆になんで魔伎に生まれたんだろって、一回も、ちょっとでも思ったことないなんてことないでしょ」
言葉に詰まってしまった。
自分は魔伎だからこんな目に遭っているのだと、自分は普通には生きられないのだと思ったことがあるからだ。魔伎でよかったなんて思ったことはない。なんの力もいらなかったからジェイクと血の繋がっていない他人同士にして欲しかった。
「ほらね、あるでしょ。俺らは特別な存在である魔伎がもっと表舞台に立つべきだと思ってるの。そのほうがもっとこの国を強くできる。他国に侵略なんて許さないし、生活だってもっと便利にするよ。なんの力もない人間にいいように使われて特異扱いされるなんておかしいもん」
どこもなにも映していないような瞳にゾッとした。
一緒に生活していたユーリと同じ人物だとは思えなくて、怒りも不安も驚きも、ただ絶望という感情に塗りつぶされたように感じた。
レオナの知っていたあのユーリは造られた存在で、思考や好みを把握したつもりでいてその実なにも知らなかった。
ただこうしてレオナのことを仲間に入れようという目的のためだけに近づいて、タイミングを見計らっていたのだろう。きっと初めは近くで実力を見たくて。それが合格なら勧誘してダメなら油断している隙をついていつでも殺せばいい。
なんだか、馬鹿みたいだ。
ファイやバレンシアは疑っていたのに、一番彼と近かったレオナが微塵も疑いもせずにともに生活できることを単純に喜んでいたなんて、とんだ間抜けだ。
「……でも、私はヘヴルシオンには入らない。私はヴァリーを裏切れない」
レオナの弱くもはっきりとした声に、ユーリは不満さを露わにして頬杖をついた。
「ま、レオナはそう言うだろうなって思ってたけど。いいよ、時間はたーっぷりあるしね。――最後は、いい返事期待してるから」
ユーリと別の話がしたい、そう思って口を開くと、視界が筋肉で覆われた屈強な身体で遮られる。
見上げるとガジェットが口角を片方だけ上げて目を細め、頭に手を置いてきた。
「よう嬢ちゃん。悪いが今日はここまでだ。部屋は用意してやってるからそっちに行ってもらうぜ」
「ちょ、私はまだ…!」
強い力で腕を掴まれ、引っ張られる。
魔力が使えるならまだしも、なんの力もない今の自分では抵抗のしようがなかった。
「ね、ユーリ…! ユーリ!!」
レオナが必死に振り返って叫んでも、彼は似合わない大人びた笑みを浮かべただけでガジェットを止めようともレオナに声を掛けてくれもしなかった。