朱の月

6話‐1‐

―― 機は熟した。



「ただいまー」
 そう言いながら、ふさがっている両手の代わりに魔力を使って扉を開けた。
 こうして暮らすようになってから、意識的に魔術を使うようにしてきた。そのおかげか随分と楽に簡単な術なら使えるようになったように思う。人目の問題で、家の中だけになってしまうが。
 レオナを目に留めるなり、すぐに室内にいた人物が声を上げた。
「そんな大荷物なら俺も行くって言ったじゃん!」
「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだけど、気付いたらこんなことに…」
「無駄遣いはやめなねー?」
「はーい」
 いったいどっちが年上なんだか、という会話をユーリとしたレオナは、当初の予定よりも倍ほどに増えてしまった荷物を机に置いた。
 すぐにユーリが駆け寄ってきて分別を手伝ってくれる。
「なに買ったの、これ?」
「魔道具なんだって。えっとね、こんな」
 木でできている土台に嵌っている、漆黒の水晶に刻まれている文様をなぞる。それが光を帯びたかと思うと、ぼうっとなにかが浮かび上がった。
 はっきりとしていなかったそれはすぐに明確な形を映し出した。霧に浮かんでいるように、それでも鮮やかに色を放っているそれは、
「わ、なにこれ…海?」
「正解―!」
 海の映像だ。
 一度記憶させた景色を保存できるようなものらしく、しかし静止ではなく波打っているのがわかる。音も再現できるものもあったが、レオナが購入したものよりも値が張ってしまうので諦めたのだ。
 一見ただのおもちゃのようにも思えるが、これだって決して簡単ではない術だ。それが一般人でも手に入るというのはさすが王都。
「すっごいね…」
「ユーリ、海見たことないの?」
 黙って頷く。
 ファーレンハイトは海に面している国とはいえ、その国土は広い。レオナは以前に海に近い場所に住んでいたので何度か行ったことがあるが、国民の大半は一生のうちに一度見れるかどうか だと聞いたことがある。
「私は近場に住んでたことあるからそんなに珍しくはないんだけど、王都って海から遠いでしょ? だから割と需要あるらしくて、ちょっと、高かったけど……、これはユーリにも見せてあげたいなーと思ってさ」
「えー、それ嬉しいんだけど! ………いいなー、俺も直接見てみたいなー」
 ユーリは本当に嬉しそうにその映像を見つめ、小さく独白したその言葉には彼らしくない本心が溢れているように思った。
 彼と出会ったセラルト領は海とは反対側に位置する土地だ。そこに辿り着く前にどこにいたのか聞いたことはなかったが、大半の国民の例に漏れず海を目にしたことはないようだ。
 彼と過ごすようになって分かったことがある。ユーリは、自分の思いをあまり口に出すことがないのだ。軽い希望や意見は述べるが、基本的にはレオナの意見を優先させて、なにがしたい どこに行きたい これが欲しい など、一切聞いたことがなかった。
 そんな彼が漏らした小さな小さな私欲。それを叶えてやりたいと思った。
「――行こっか、海。すぐにとは言えないけど、いつか、絶対!」
 レオナの提案に一瞬喜色を滲ませたが、はっ と急いで表情を消して、
「まぁ別に、行きたい訳じゃないけどね、レオナが行きたいならついてってあげるよ」
 照れ隠しなのかレオナの目を直接見ようとしないユーリがなんとも可愛らしい。頭をなで繰り回したい衝動に駆られるが、それをしてしまっては傷ついたような恥ずかしそうな、怒った視線を向けられるのは分かりきっていたのでなんとか堪えた。
 それでもレオナがユーリのことを可愛がっているという気持ちは変わらないわけで。可愛がるということは、苛めてやりたくもなるわけで。
「ユーリって泳げるの?」
「…お、泳げないけど」
「ふぅーん、泳げないのかー」
「なにさ! だって海行ったことないし近くに川もなかったし、泳ぐことなんてなかったんだよ!」
「いやいや、別になにも言ってないじゃないー」
「顔が言ってる!」
 頬を少し赤くして、泳げないことを突かれて悔しそうにしているユーリ。
 泳げない人なんて多いだろうし特に恥じることではないのだが、意外とプライドが高いらしい彼には触れられたくないことだったのだろう。ファイあたりに教えてやったら、珍しく彼が劣勢になる舌戦が見られるかもしれない。
「大丈夫、私が教えてあげるよ」
「頼んでませんー」
「任せて、私結構教えるの上手いって言われるんだから」
「だから頼んでないってば!」
「強がらなくていいってー」
 今度こそつい頭を撫でてやってしまうと、見るからに顔を赤くして頬を膨らませ、ぷいと顔をそらしてしまった。



「今日、この後の予定は?」
 どうにか話を変えようとしたのか、まだこちらを見てくれないままユーリが聞いてきた。
「んーファイに呼ばれてるから、ちょっと顔出しに行ってくる。ほんとは来てくれるって言ってたんだけど、まだ来ないってことは抜けられないんだろうし」
「行かなくていいよ」
「そういうわけにはねぇ…」
 ばっさりとした物言いは、ファイに対してしかしないものだ。未だに改善傾向がみられない2人の関係は、きっとこのままずっと変わらないのだろうと勝手に思っている。
 それどころか、なぜか王都に戻ってきてから余計に関係が悪化したような気もするのだからどうしたことだろうか。ユーリはレオナによくくっつくようになって、ファイは大した用事でもないのにこちらへ来るか王宮に来てくれと頻繁に言ってくる。
 2人とも、2人きりの時はそうでもないのだ。3人でいるときはなんだかレオナを挟んで火花が散っているように見える。なにかしてしまっただろうかとも一時期考えたこともあったが、思い当たらないことを考えても仕方がない。
「まぁいいよ。今日は俺がご飯作っとくね」
「ありがとー! ユーリのご飯美味しくて好きだよ」
「当然でしょ」
 素直な感嘆の声に機嫌を良くしてくれたのか、やっとこちらを見て笑ってくれた。
 しかしそれも、一瞬後に鳴り響いたノックの音のせいで消え去ってしまった。
 顔を盛大に顰めたユーリに苦笑を漏らしつつ、レオナは扉を開けに向かう。
「ユーリー、ほら、違う人かもしれないじゃない」
「んなわけないでしょ。あのノックの仕方はあいつしかいないの」
 正論に言葉が返せなかった。一見なんの変哲もないノックに聞こえるのだが、何回も聞いているうちに分かったことがある。なぜか必ず2回叩いた後に小さくもう一度叩く癖。
 そんな癖を持っているのは、
「いらっしゃい」
「邪魔する」
「ほんと邪魔なんですけどー」
 ファイだけだ。


「なんか言ったか、ユーリ?」
「なんにもー」
 挨拶もせず、目も合わせずにユーリは自室に消えていった。
 ファイはそんな彼の後ろ姿を見届けてから、小さく舌打ちして椅子に座った。
「なんなんだあいつは。いい年だろうが」
(それはファイもだと思う…)
 なんとか口に出すことは堪えられた言葉を飲み込む。
 冷たいお茶をいれてから、自分もファイの向かいに座った。
「今日こっちこないと思ってたよ。仕事忙しかったんじゃないの?」
「あー…まぁちょっとな。息抜きだ息抜き。何日もヴァリーといたんじゃ身が持たないんだよ。あいつビビアーナと共闘してやがるから」
「……うん、なんとなく想像できるかな」
 幼馴染だという2人でも、他の人間がいると見事な主従の関係を守っているというのはディカルストで確かに目にしていた。
 ファイはヴァレリオに臣下としての苦言を述べる程度しかできず、ヴァレリオは主としての立場を有効に使ってファイをからかっているらしいのだ。彼付きのビビアーナも、主の歯止め役になるどころか大いに煽っていると 彼から散々聞かされた。
 そうなのだ。てっきり今後のことやら現在の状況について報告したりされたりするのかと思っていたら、王宮に行くときはまだしも ファイが訪ねてきたときはなんてことない世間話やら彼の愚痴やらを聞くだけなのがほとんどである。
 もう彼はレオナに隠し事をしないだろうから、特に伝えることがないのならば今のところは平穏だということなのだろう。
 それはいいことだ。いいことだが…ならばなぜ彼はこう足繁く通ってくるのかがわからないでいた。
 息抜きだと彼自身も言っているが、息を抜きたくなるほど切羽詰まっていることでもあるのだろうか。
「王宮大変なの?」
「いや……今は落ち着いてる。陛下はヴァリーが支えながらだが執務もできるようになっているし、ヘヴルシオンもなぜか動きがないしな」
「…エフライムは相変わらず?」
「あぁ」
 ビビアーナが一足先に連れ帰ったエフライムは、彼女が魔術で固めた特殊な部屋に捕らえられたまま、なんの情報も漏らさないそうだ。
 ミシェルが術をかけようにも、彼の中に入ろうというところで彼自身の体内に渦巻く魔力に打ち消されてうまく術がかからないと。無理に行使すると人格を崩壊させることになりかねるため、ビビアーナが試行錯誤してどうにか吐かせようとしているということまでは聞いたのだが、一向に変わりはないらしい。
 レオナは精神に作用する術なんて使えない。できるとしたら拷問だが、やり方なんて知らないし知っていたところで実行できるはずもない。
 エフライムのことは王宮のことだ。組織に関わっていようと、兄を捜しているだけのレオナがこれ以上関わることはできないが…、なにかできることはないだろうかと考えることが癖になってきていた。
 熟考に入りかかったとき、ふと顔を上げると頬杖をついたファイが微笑みながらこちらを見ているのに気が付いた。
「な、なに…?!」
「別に。見てただけ」
「見てただけって…」
 笑われるほど変な顔でもしていただろうか。黙って見られているというのは非常に居心地が悪いのだが。
「で? 今日はなにか溜まってんの?」
「特には」
「なにか報告でもあるとか?」
「残念ながらそれもないな」
「暇じゃないんでしょー? なんで来たの?」
「お前の顔を見に」
 思考が停止した。いや、目まぐるしく回転しているがゆえに最適な言葉を探し出せなかったというべきか。とにかく、なにを返すでもなく、笑うでも照れるでも怒るでもなく、ただ固まってしまった。
 ファイのことだ。言葉通りの意味のはずがない。
 ヴァレリオと賭けでもして、罰ゲームで言ってこいとか言われたんだろうか。
 レオナの顔なんて物珍しくもないしファイはすっかり見慣れてしまっているだろうし、第一 彼とはつい3日前にも会っているのだ。特に体調を崩してもいないので、様子を見に来られる理由がないと思うのだが。
 それとも、レオナの顔を見に来たなんてなんともない理由をつけてでも抜け出したいほど、王宮で(ヴァレリオに)苛められているのだろうか。
 そんなことを考えたレオナのとった行動は、
「あ、そう」
 という至極素っ気ないものだった。
 しかし彼は前のようにすぐ怒るでもなく、少し残念そうな瞳をしたまま軽く笑うのだ。
「お前は相変わらずだな」
 言って手を伸ばしてくる。
 レオナの頬を包み込むというその瞬間、強く後ろに引かれた。
「わわっ! ユーリ?」
「レオナー、今日なに食べたい? 俺なんでも作るよ」
 首に腕を回して抱き付いてきたユーリの顔は見れない。ただ、目の前のファイが行き場をなくした手を宙に浮かせながらレオナの背後を睨んでるところから考えれば、きっと彼も睨み返しているんだろう。
 こういうときは、触れないのが一番だ。
「そうだなー……あ、ファイも食べてく?」
「ファイは帰るよね まさか食べてくとかそんなおこがましいこと近衛兵士様が言うわけないよね お口にも合わないでしょうし?」
(あーあーあー…ユーリー…)
 また冷戦が始まってしまうのか。
 今回きっかけをつくってしまったレオナは、ユーリが腕を放した隙にそろりと抜け出して部屋の端に避難した。さすがに止める人物がいないのはまずいだろうと部屋にとどまっていたのだが、結果としてそれは正解だった。
 小一時間に及ぶ睨み合いと舌戦の末、レオナがそろそろ時間じゃないかと言ってファイが去るまで、結局決着はつかなかったのであった。

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