朱の月

5話‐5‐

 美味しい料理を食べ終わるという頃、ランカが食器を片づけるのをレオナも手伝っていたら、さりげなく彼女が肩を寄せてきた。嫌われてはいないだろうが特に好かれているとも思っていなかったレオナは少し驚いた。
 無意識に身構えてしまう。
 しかしその緊張をあっけなく破壊したランカは、意味深な笑みを向けてきただけだった。
(そ、その笑顔はなに…?)
 そんな笑顔を向けられる覚えもない。呆然としてしまったレオナだが、とりあえず手に持った食器を運ぶことにした。覚えがないなら、考えても無駄だろう。
 そうして持ち上げようとした時、ふいに食器が軽くなった。
「え」
 振り返ると、ファイに取り上げられたことに気付いた。
「私持ってくからいいよ、座ってて」
「いい。お前は座ってろ」
「え、えー…?」
 有無を言わさず押さえつけられてしまったレオナは、釈然としない気分で立ちつくしてしまった。
 彼の背が台所に消える。
「ねぇ、私なんかした?」
「なんのことだよ」
 さっぱり言っている意味が分からない という表情でヴァレリオが聞き返す。
「だって、さっきから私がすること全部取られてるんだけど。お前になんて任せてられるか! ってことじゃないの?」
「えぇぇ……。レオナの思考ってどうなってんだよ…。俺、ちょっと引いた」
「なんで」
「いやいやいや、お前ファイがあんな、」
「お茶淹れましたよー。焼き菓子もあるのでつまんでください」
「ありがとうございます」
 前傾姿勢になったヴァレリオだったが、ランカが戻ってくるのを見計らってきっちりと猫かぶりの態勢に整えられていた。
 素晴らしい切り替えだと思う。思わず笑いたくなってしまうほどには。
 彼女の前ではやはりあまり話さない対応は崩さないらしく、それきり黙ってしまった。レオナとしてはまだ話の途中だったし気になるところではあるのだが、ファイ本人を目の前にしてはさすがに続行は不可能だ。
「ところで本題ですけど、ファイ様からお話を聞いた程度での判断ではありますが、……レオナさん、“退魔”って言葉はご存知ですか?」
 頷く。
 退魔とは、その言葉の通り、魔――魔力や魔術を封じるためのものだ。昔からその研究は進められていたようだが、研究をするのも魔力を持つ魔伎だ。そもそも自身の力を封じるようなものを積極的に研究しようというも者もいなく、またかなり困難だということで浮かんでは消え、浮かんでは消え、という存在である。
「お話を聞いた限りでは、退魔の術で間違いないでしょう。ただ、私は開発が成功したという話は聞いたことがありませんが…こうして目にしてしまったわけなので、その構成を調べてみます。幸いにも文様が刻まれているので、私でも解析はできると思いますし」
「話の腰を折るようで申し訳ないが、退魔とは…?」
 魔伎であれば聞いたことのある言葉ではあるが、ヴァレリオとファイは聞き覚えもないようだ。
 ランカが彼らに説明をしてやる。簡潔でレオナがするよりも遥かに分かりやすいそれを聞いたファイは、深刻な表情をして考え込んだ。
「退魔ですか…。確かに、魔術師を中心にしているやつらにとっては要になる術ですね」
「必要なの? そこまで重要だとは思えないけど」
「ではひとつ聞こう。魔術師であるお前が敵として最も戦いたくない相手は誰だ?」
「兄さん」
 ファイの問いに即答したら、盛大に溜息を吐かれた。
「精神的にじゃない、魔術師として、だ」
 魔術師として、か。
 今まで関わった人物の顔を思い出して熟考する。そうして行きついたのは、
「……やっぱり兄さんかな。あと、ミシェル」
 やはりジェイクだった。
 兄だから、好きな相手だからというのは当然にある。喧嘩もしたくない相手なのだから、本気で戦いたくなど絶対にない。
 それを除いたとしてもやはり彼だ。彼は自分の全てを知っていると言って過言ではないから。ジェイクがが失踪してから本格的に魔術を学んだとしても、生来の性格、思考、術の幅、力量は予想を超えるほど格段に変わったのではないレオナでは、魔力量も技術も決して敵わない。
 ミシェルというのも、戦闘に特化しているのは自分のほうではあるが、彼女は経験と応用力が優れている。どういう手を取られるか想像もつかないことではあるが、恐らく簡単に戦闘不能状態にさせられるだろう。
「俺だったら?」
「うーん……ファイだったら…条件にもよるけど、対応の仕方はあると思う。自分より強い魔術師を相手にするよりはやりやすいはず」
「そういう理由だよ」
 なるほど。そこまで言われてやっと合点がいった。
 それほどまでに差が開いていたり、人数差があったり、巧妙に策が練られていたりしなければ、魔術師にとって自分の障害になってくるのはやはり魔術師なのだ。対剣士では、接近戦でもなければ後方から術を投げ込めるし、接近戦だとしてもキーラなど場数を踏んでいる魔術師ならそれ相応の戦い方くらいできる。
 その魔術師が中心になっているヘヴルシオンにとって杞憂なのは王宮専属魔術師の存在のはずだ。人数が少なくとも、国内でも屈指の魔術師が集められているのだから。だからこそ彼らの力を抑えることができれば、ヘヴルシオンにとっての脅威はなくなるといっていい。
 そうだ、思ったではないか。魔術に頼って剣や体術を学んでこなかった典型的な魔術師であるレオナがキーラとの戦闘の際に魔力を封じられて、魔術師との戦闘で魔力を封じることの重要性を身に染みて知ったのだった。
「え、と、じゃあヘヴルシオンでは退魔を使える術師がいて、魔道具も持ってるってこと? 数はわからないし?」
「そういうことです」
「ううわぁ…なんだか、思ってたより深刻?」
 レオナの間の抜けたような言葉にファイが眉根を寄せたのが分かった。
 分かったは分かったのだが、本当に微妙にだ。いつの間に彼の微妙な表情の変化に気付けるようになっていたのだろうか。なんだかんだ多くの時間を共に過ごしてきているのだから自然なことかもしれないが、なんだか複雑な気分だ。
 彼も同じように、レオナの微妙な変化にも気付くようになっているのかもしれない。そういえばクルグスの街でもレオナが躊躇していたことをすぐ見抜いていた。彼のほうが気配や変化には敏感だろうから、それくらい当然だと言われそうだが。
「解析にはどのくらいかかりますか?」
「確証できませんが、ひと月頂ければ解析してみせましょう」
 彼女の言葉に、ファイとヴァレリオは顔を見合わせて黙りこんだ。
 ひと月。
 未知の魔術の解析に対しては決して長くはない時間だ。むしろその程度で解析できるとはにわかに信じられない期間ですらある。しかしファイたちにとっては悠久のように感じられるのだろう。
 現王が病に倒れ、隣国ベティスが攻め入るという噂もあり、ヘヴルシオンの動きも活性化している。そんな中のひと月なのだから。
「…王宮に来て頂くことはできませんか。設備も整っていますし、アドルフ殿には及ばずとも現在研究を主にしている専魔師に手伝わせることもできます」
「そうですねぇ……。近衛兵士さんの前でこう言うのは失礼かもしれないんですが、私、あまり専属魔術師って信用してないんですよね。申し訳ないんですが、解析は私一人に任せて頂きたいです」
「そうですか…。民に信用されない専魔師とは…お恥ずかしい」
 ランカの正直な言葉に苦笑する。
 魔伎の中には、専魔師をよく思っていない者もいる。レオナは両親が専魔師だったことと、ミシェルが同じ立場にいることでむしろ親しみやすさを感じているのだが、国から与えられる地位と金に釣られた裏切り者とまで言われることがある。
 ランカは師が元専魔師なのでそこまで思っていないらしいが、専魔師だからといって初対面の人間と自身が専門とする魔術の解析を協力してやりたくはないそうだ。解析は個々によって手の付け方や目の付けどころに違いが出て、同じ結果に辿りつこうともそれまでの経緯は全く異なることがあるらしい。
 師であるアドルフとも解析の仕方に違いがあるという。
 レオナにも聞き取れないほど小さくヴァレリオと短い言葉を交わす。ランカ一人に任せることに不安があるのか、彼女がここで解析することに不安があるのか。
 元専魔師のアドルフの弟子とはいえ彼女自身との関わりは多くない。互いに信頼関係は築けているとは言いがたい状態で、重要な魔道具を預けることは簡単には決められないことなのだろう。
「分かりました。あなたに一任します」
 ファイが自分を信じて任せてくれるということ。それにランカは嬉しそうに笑って頷いた。



 日も暮れていたことで、この日はランカの家に泊めてもらうことになった。
 ファイとヴァレリオは女性の家に泊まるわけにはいかないから野宿すると言っていたが、ランカが寝不足のまま馬に乗って怪我でもしたらどうするのだと一方的に攻め立てて納得させることに成功していた。
 実際は、ファイなら1週間くらい寝ずとも問題ないらしい。ただレオナがいるということで折れたのだと、ヴァレリオがこっそり耳打ちしてきた。
(今まで散々野宿したり夜通し歩かされたりしてきたんだけど、どういうこと?)
 腑に落ちないところはあったが、ランカが嬉しそうにしていたので文句など言えなかった。そもそも休めることに関しては大歓迎なのだ。本当ならば毎晩風呂に入り、しっかりとした屋根のあるところでふかふかのベッドで眠りたい。
「あまり余分に寝具を置いていないので、レオナさんは私と同じ布団でもいいですか?」
「う、うん、別に私は…」
「ファイ様とヴァレリオ様の分は隣の部屋にご用意しておきますね」
「ありがとうございます」
 笑顔で礼を述べているファイだが、ヴァレリオもいることだしここで眠ることはないのだろう。恐らく目を閉じて意識は薄く起きたまま、なにが起きても対処できるようにしているはずだ。
 以前に、結界を張っておくから安心してファイも休んでいいと言ったことがあるのだが、表面だけ了承して全く眠っていなかったのだ。近衛兵士の性なのか彼自身がそういう性分なのか、レオナが口を出すことではないと思って強要させることはしなかった。
 まぁレオナが気にしてもどうにもならないことである。シャワーを勧めてもらったことだし、遠慮なく汗を流して休ませてもらうことにした。
「ランカー、ありがとうねー」
「いえいえ。狭くてすみませんが、一晩だけですし我慢してくださいね」
 彼女の自室に入ると、すでに化粧も落として夜着のランカが髪を梳いていた。
 分かってはいたことだが、やはり美人である。肌は綺麗だし、化粧を落としたからこそその素材の良さが際立っていて、幼く見えるのもまた可愛らしい。夜着では色気が増されて妖艶に見えてしまうのではないかと思ったが、意外にも清廉に目に映った。
 そうしてまた勝手に自分と比べてしまって勝手に落ち込んでしまったが、それを知られるのもみじめだと思って表面では冷静を保った。
 失礼します と独白のように断ってから、彼女の隣に並んだ。
 準備を終えたランカが横になったと思ったら、すぐにレオナも寝るように促された。
 ミシェルとは違う、自分にどういう感情を持っているのか分からない普通の女の子だ。変に意識することもないし、むしろ意識したらなんだか変であるし。
 ミシェルのせいで妙に気構えてしまいながら、遠慮がちに隣に入った。
「私、物心ついたころからあまり友達っていないんですよ」
 突如始まった彼女の独白。黙って頷く。
「魔伎だってことを、理由は分からないんですけどすごく誇りに思ってて、それ以外の人間なんて自分以下じゃないか、とまで思ってたんですよ。――あ、子どもの頃ですよ?
今ではそんなこと全然ないんですけど、アドルフさんについてこんな村に来ちゃったんで、新しく知り合う人もいないし、そもそも若い人……特に女の人っていなくて」
 話の意図が掴めない。理解しようとしていると、ランカが体の向きを変えてレオナと向かい合う形になった。
 控えめに手が伸ばされて、レオナのそれを優しく握る。
「だから、その、初めはちょっとどころかかなり失礼な態度をとってしまったんですけど、私、レオナさんと仲良くなりたいんですよね…!」
 暗がりの中で見える彼女は、少し緊張しているような顔で、真剣な表情でレオナを見つめていた。
 そこに必死さを感じ取ってしまって、途端に彼女がとても可愛く思えてくる。外見はもちろんだが、初対面が恋敵(ではないのだが)という形だったので、敵対心を向けられているだけだったのだ。だから彼女の内面を知ることもなかったが、そう思ってくれていたのなら嬉しい。
 優しく包み返す。
「うん、私も仲良くしてくれたら嬉しい」
 素直な気持ちを伝えたら、ふわっと空気が柔らかくなって小さく「ありがとうございます」と聞こえた。

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