朱の月

5話‐4‐

 ぱたん という扉の閉まる軽い音を最後に、部屋には音が一切なくなった。
 椅子を引く音も微かな衣擦れの音も息遣いも、していたのかもしれないがレオナの耳には入らなかった。
「……ねぇ」
 静寂を破ったのはレオナ自身だった。同じように残されたヴァレリオの返事が背後からする。
「なんだか、すっごく、腹が立ってるんだけど」
「やきもちか?」
「違うって!」
 その言葉にはさすがに振り返って、軽く睨んでやった。
 主従揃って勘違いにも程があることを言わないでもらいたい。からかっているだけだろうが、ファイのことなどどうとも思っていないのだ。レオナが一途に想っているのはずっとジェイクなのだから。
 ただ、ちょっと面白くなかった。
 ヴァレリオが変なことを吹き込んできたせいだろうか、たまに彼を意識してしまうことがある。それなのにランカの肩を抱いて意気揚々とデートしてくるだなんて、と思ってしまったのだ。
 恋人ではない。レオナの想い人でもない。ましてや彼の気持ちすら分からないというのに、なんと勝手なんだろう。それが分かっていたからこそ、余計に自分自身に腹が立ってしまった。
「いやー、いいよなぁ…あいつ……。ほんと役得じゃんか」
「ランカに頼んでみれば? 資金提供してあげるからデートしてくれって」
「俺は、うらやましいとは思っても俺に気のない女は興味ねぇの。まぁ夜伽くらいならいいけど、それも結局つまんねぇからな」
「ううわぁ……」
「ん? あぁ、レオナはばっちり範疇だぜ?」
「ごめん、嬉しくないや」
 ばっさりとしたレオナの言いようにも、ヴァレリオは楽しそうに笑っただけだった。
「そもそも、恋とかしようと思ったこともねぇしなー」
「え、ないの? 好きになった人は」
「いねぇ」
 黙って憐れんだ目を向けたら、なにかをバサッと被せられた。
「わ、わ!」
「お前、なんつー目してんだよ」
 慌てて頭に手をやると、ついさっきまでヴァレリオが被っていたかつらが乗せられていた。
 目の前の彼はすっかり元通り、赤みがかった目映いほどの金髪になっている。乱れた髪を払って直す。
「それ被ってれば? 意外と黒髪も似合うって」
「いや。私自分の髪色気に入ってるんだから」
「まぁ綺麗だよな」
 率直に褒められたことに少し嬉しくなる。
 だってこれは、ジェイクと同じ色。
 兄妹だろうと、瞳は彼のほうが透き通った硝子玉のような色でレオナとは違う。でも髪色は。誰もが褒めてくれた銀色の髪は、彼と全く同じ輝きを放っている。
 あまり兄と顔立ちも似ていないレオナにとって、これが彼との絆を最も顕著に表わしているものだ。それが切ないほどに嬉しくて、泣きたくなるほど恨めしい。
 彼と同じものを持っている嬉しさ。
 彼と血が繋がっていることを突きつけるそれ。
 顔に掛かるそれが、目に映るそれが、自分を強く責めている気がして切ってしまおうかと思ったことがあった。でも彼が長い髪が好きだと言ってくれたし、やはり彼との繋がりを切ることができなかったのだ。


「ヴァリーはさ、自制してるから好きになったことないとか思うだけじゃないの? 大切にしたいな とか一緒にいたいな とか思った人、本当にいないの?」
「――…俺は、自由に相手を選べるわけないって物心つく頃から理解してるからな。親父は政略結婚とか考えなくていいとか言ってるけど、そうもいかないだろ。それが王族だし」
「好きになるって、ならないって思っててもなっちゃうものだと思うよ。気付いたらここに居座ってて」
 胸に手を置く。
 ヴァレリオはそんなレオナの話を真剣に聞いていたようだが、一瞬でその色を消してにやりと口角を上げた。レオナに返されたかつらを肩にかけ、至近距離で覗き込んできた。
「へぇー、誰が?」
「だ、誰でもいいじゃん! はぐらかさないの! 今はヴァリーの話を、」
「ファイじゃねぇの?」
「はぁ? なんでファイ」
 またこれだ。ヴァレリオはことあるごとにファイのことを言ってくる。
 何度言われようとレオナはジェイクが好きだしファイだってレオナのことはなんとも思っていないだろうに、しつこいにも程がある。
 嫌な気分になるのではないが、あまり言っていても生産性のないことだと思う。
 頭突きのように軽く額を当ててからヴァレリオは顔を離した。
 どさっと椅子に座って、机の上にかつらを放り投げる。さらに誰に似たのか行儀悪く足まで乗せて、頭の後ろで手を組んだ。
「ファイなーほんとになー、あいつ今頃楽しんでんのかなー」
 ヴァレリオの生々しさを感じさせる発言に気まずくなって、視線を合わせないようにして向かい側に座った。
 知り合いのそういう話はあまり聞きたくないが、聞いてしまうとなんとなく想像してしまうものである。
 それを振り払うように無理やり話題を変える。
「このへんでデートって言っても難しいよね! なんもないし!」
「お互いの身体があればいんじゃね?」
 失敗した。
 なんの話題変更にもなっていない自分の引き出しのなさに頭を抱えたくなるが、それほどあからさまな反応をしてもまた意地の悪い彼にからかわれるだけだ。
 それにどうやら彼はレオナがこの手の話は苦手だとわかっていて話をどうにか戻そうとしているようなのだ。
「そんなに気になるならこっそりついていけばいいじゃん」
「俺程度じゃすぐバレるって。てか覗きの趣味はねぇのー」
「はいはい」
 もうこれで終いだと言わんばかりに手を打って、わざとらしく彼に背を向けた。



 二人で他愛のないことを話して、そのネタも尽きた。転寝をしたり、うろうろと動き回ったり。
 そしてヴァレリオは持ちこんでいたらしい書類に向かい、レオナが結局魔道具らを物色し始めた頃、感知用の結界に反応があり、すぐにヴァレリオに報告した。
 彼は外していたかつらを再び装着し、レオナが違和感のないことを確認する。
 二人で頷きあった時、扉が開いた。
「戻りましたー」
 ファイが開けてやっている扉から、満足感に溢れているランカが先に入ってくる。
 ヴァレリオが姿勢を正して彼女らを迎えるのに、レオナも同じように立った。
 気付いていなかったが、開けた先から見えた外はすでに暗い。どうやらこの家はあえて窓を少なくしているようなのだ。魔道具に関わるからなのかよくわからないが、日の光を避けているのだと軽く触れていた。
 だから余り時間の経過がわからなかったのだが、空腹にもなってきているし、随分経っていたらしい。
(まぁ、デートなんだからゆっくりして当然か)
 というより、ヴァレリオの予想では今日は帰らないだろうと言っていたのだ。それを考えれば随分早い帰りであるだろう。
「遅くなってしまってすみません。今お夕飯作りますね」
「料理できるんですか?」
 当然のように台所に向かおうとしたランカにヴァレリオが感心した声で話しかけた。彼からランカに話し掛けるのは初めてだ。
「えぇ。今は一人暮らしですし、前もアドルフさんと二人でしたからねー。いつでもお嫁に行けるくらいの技術は持ってますよ。どうです?」
「私にはもったいないですよ」
「あら、残念です」
 誘惑するような艶やかな笑みを浮かべたランカに、ヴァレリオは意外にも軽く流した。それを受けた彼女もふふっ と笑っただけですぐに消えて行った。
「……ランカ、料理できるんだってよ」
 ヴァレリオがにやぁっと笑って見てきた。
 なんだか激しい既視感があるのだが。「お前はどうなんだ」と言わんばかりのその目。しかし、彼が相手ではない。彼の、幼馴染だ。
 どうしてこんなに似ているんだろうか。口角の上げ方から傲慢な振り返り方まで瓜二つだ。
「なにが言いたいの?」
「俺はレオナが作った料理とかも食べてみてぇんだけど」
「叶わぬ夢だな」
 口を挟んできたファイが、しかし言った瞬間に瞠目して固まり、苦々しく眉を寄せた。
 謎の反応に首を傾げながらも反論する。
「お言葉ですが、私だって料理くらいは嗜みますからね。昔はよく作ってたし」
「へぇー、意外ー!」
「意外って失礼な!」
 これでも、早くに両親を亡くした分家事は一通りやってきたのだ。もちろん料理も。ただ、兄が好むような薄味を作り続けたことでレオナ自身も味覚が変わってしまったようで、ミシェルに食べさせたら薄すぎると言われてはしまったが。
 女性らしい女性のランカと比べられたらとんでもないが、それでも貶されるほどではない。
「王都戻ったら作ってくれよ」
「いやだよー。王宮の美味しい料理食べて舌が肥えてる人に食べさせるようなものではないって」
「んなん関係ねぇって。庶民的な物が食いたいの! なぁ、ファイ!」
 話を振られたファイは、やはり彼らしくなく忘我していたようだ。
 全く会話が耳に入っていなかったようで、名を呼ばれて初めて気が付いたらしい。強張った笑みを浮かべて適当に相槌を打った。
 今度こそヴァレリオと顔を見合わせる。そのまま足を摺るようにして側に寄り、声を潜めた。
「なになに、あいつどうしたの」
「わかんない。なんか変だよね?」
 ちらりと彼の様子を窺うと、なぜか真顔でレオナのことを凝視している。睨んでいるのではないかと思えるほどの表情だ。怒らせることでもしてしまっただろうかと一瞬考えたが、思い当たることはない。
 それにどうやら、怒っているわけではないようなのだ。
 ただ、なんというか、葛藤しているのだろうか。珍しく茶色の瞳に迷いが見られる。
 見られていることに耐えられなくなり、口を開く。
「……なに、なんかある?」
 少し喧嘩腰の口調になってしまった。(レオナが言うのもなんだが、)短気のファイのことだ、また本当に口論になってしまうかもしれない。
 しかしその杞憂はあっさりと裏切られることになった。
「なにも。…お前、あんまヴァリーと近づくな」
「なんで」
「俺が嫌だから」
 真剣な瞳でそれだけ言い捨てて、いつの間にか良い匂いを漂わせている台所のランカのところへ手伝いに行ってしまった。
 彼の言葉を何度か反芻して咀嚼したレオナは、それでも意味を上手く捉えられなかった。
「え、結局ファイはなにを言いたかったの? 嫌がらせ?」
 自分が嫌だとか子どもみたいなことを言われても、なんの説明にもなっていないではないか。今は友人として過ごせていられているヴァレリオに近づくななんて、嫌がらせに他ならない。
 そう結論付けたレオナに、ヴァレリオは残念そうな視線を向けてきた。
「俺さー、レオナって賢いほうだと思ってたんだけど、気のせいだったんだな」
「え、なにそれ失礼だな!」
「ファイが不憫で仕方ねぇよ…」
「だからなんで!」
 それっきり黙ってしまった彼に言及しようとすると料理を作り終えたランカが現れ、それも憚られてしまった。
 彼女の手料理はいつか見た夢とはまるで違って、見た目から味まで王宮のそれと大差ないと言えるほど素晴らしいものだった。

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