朱の月

5話‐1‐

「なに、王子殺せなかったの? ほんっと使えないなぁ」
 かつては玉座となっていたそこに座っている彼は、任務から帰ってきた部下に対しての労わりの言葉もなく吐き捨てた。その言葉を向けられた部下――ガジェット・トリスは、ただ軽く肩を竦めた。
 王子を殺すことは、正確には自分の任務ではなかった。
 自分に与えられたのはエフライムに従うこと。だからガジェットは彼の指示を聞いて、分散した二組のうち王子がいないほうへと向かったのだ。その結果がどうなろうと、彼に与えられた任務通りにエフライムの命を聞いた自分にはなんの責任もないと、ガジェットは開き直っている。
「あいつも邪魔なんだけど、早く処分してくれない?」
「あいつって誰のことだ?」
 尊大に聞き返すと、すでに悪かった機嫌がさらに悪化したのがわかった。
「わかってるでしょ、ファイ・グローリーだよ。あいつ腕も立つし変に勘もいいし、側にいられると計画の邪魔にしかならない」
 ふてくされたようにそっぽを向く彼は、ヘヴルシオンを仮ではあるが纏めている人物とは思えないほど無害で幼く見えた。
 慎重で頭の切れるこの男がそこまで口にするのなら、本当にファイ・グローリーを組織に連れ込むのは不可能かもしれない。ガジェットの個人的な意見として彼のことが気に入っていて共に国を変えたいと思っているのだが、現在全ての権限は目の前のこの男にあるのだ。
 自分にとって、彼は全く怖い存在ではない。殺そうと思えば一瞬後には彼の首を刎ねることだってできる。
 しかしそれをしないのは、やはり自分のためだった。
 身の安全ではなく、彼を殺してしまっては途端に詰まらなくなってしまうからだ。ヘヴルシオンの鍵はこの男だ。彼がいなくなってしまえば組織の力は半減し、計画も大幅に変えなくてはならない。
 せっかくこんな面白いことに参加できているのに自分の手で壊すなど滑稽な真似はしない。
 それでも、ファイ・グローリーは殺させるには惜しい存在なのだ。
「奴を殺せるのは俺か兄貴くらいだろ。だが兄貴は切り札なんだろ?」
「当然。ジェイクはまだ妹の前には出せない」
「あぁ、あとキーラなら可能性あるかもな」
 頭に浮かんだ女の名を口にすると、苦虫を噛み潰したかのような顔で舌をだした。
「あいつは無理だね。やることがいちいち温い」
 ジェイクの次にヘヴルシオンの魔術師で力のある女は、性格に多少難がある。彼とよく舌戦を繰り広げているし、もともと合わない性質なのだろう。
 戦いを楽しむあの姿勢は、自分は嫌いではないが。
「まぁいいよ、準備が整い次第すぐに次の手に移る。そっちは上手くやってよ」
 彼が見上げた先では、感情の読めない笑顔を浮かべた美しい女が側に付いており、仰々しく礼をした。



*  *  *



「え、私ヴァリーに乗せてもらうよ」
 始まりは、この一言だったように思う。
 馬で向かうことになり、ファイがレオナに自分の馬に乗るよう勧めた時だ。ヴァレリオのことを王子だと意識していないレオナにとっては、ファイよりはヴァレリオの方が気を遣わなくていい。だからレオナはヴァレリオの馬に乗ると言ったのだが、そこで急に空気が変わってしまったのだ。
 ファイが自分を睨んでいる気がするし、ヴァレリオは逆に楽しそうだ。
「なんか問題ある…?」
 王子の馬に乗せてもらおうだなんて、不敬にも程があっただろうか。ヴァレリオ自身がそんなこと気にしていないからレオナも当然のものとして慣れてしまっていたが、彼はこの国の王子であるのだから。
「…問題とかじゃないが、なんでヴァリーなんだ」
「え? 私馬乗れないじゃん」
「………そうじゃない」
「なに言ってんの、乗れないってば」
 顔を顰めたと思ったら、当てつけるように溜息を吐かれた。
 相変わらずヴァレリオはなぜか楽しそうで、笑いを堪えている顔をしている。
「お前は言葉が通じても話が通じないな…」
 これも慣れてきてしまった胡乱な眼で見られるが、そんなことを言われる筋合いはない。別にヴァレリオの馬に乗せてもらおうが、王族に対してとる態度として問題がないのならいいではないか。
 意味がわからないことを言ってきているのはファイの方だというのに、なぜ自分が溜息を吐かれなければならないのか。
「はぁ? 黙って聞いてればなに言ってるのよ」
「誰が黙ってた誰が」
「自分で考えれば?」
 売られた喧嘩は買ってやろうじゃないか。
 そうしてレオナが腰に手を当てて臨戦態勢になると、ファイはなにかを考えるように苦い顔をしたあと、舌打ちをしてレオナの腕を掴む。
 突然のことに驚いている間に、そのまま強く引かれて馬に乗せられてしまった。もちろん、ファイの馬である。
「ちょ、」
「いいから黙って乗ってろ」
 二の句も告げられずに後ろにファイが乗ってきて、両側から腕を回される。
 逃がさないと言うように囲われてしまった。こうなってしまったら暴れるのも危ないし、なにより彼との距離が近すぎて振り向けない。
 なにを考えているのか分からない彼だが、これ以上刃向かうことは無意味だろう。
「おいファイー、女の子には優しくしてやれよー」
 レオナの不機嫌を気にせずヴァレリオが軽い調子で言うが、ファイは聞こえていないとでも言いたげに無視している。
 釈然としなかったのでとりあえず肘でファイを小突いてみたら、背後から小さく「うっ」という声が聞こえてきた。それに気が良くなったレオナは、大人しく彼に任せることにしたのだった。



 問題もなく予定通りの2日が過ぎ、昼には村に着けるだろうという直前でファイは急に馬を停めた。隣に沿ったヴァレリオを一瞥し、荷を漁りだす。
「なにしてるの? 早く行こうよ」
「こいつにこのまま行かせるわけにはいかないんだよ」
 顎でヴァレリオを示しながらも荷を漁る手は止めない。疑問符を頭上に浮かべるレオナとは対照的に、ヴァレリオはファイがなさんとすることを理解しているようだった。
 嫌な顔をして、それでも大人しく待っている。
 すぐにファイは目当てのものを探し出し、それをヴァレリオに投げて渡した。
 出したのは、彼の赤みがかった金髪を隠すための黒の着け毛とファイが普段身に纏っているものと同じ近衛兵士の制服、そしてレンズの入っていない眼鏡だった。
「……変装?」
「こいつの趣味だ」
「え、ファイ主人を着せ替えするのが趣味なの? 変態ー」
「ち、が、う!!」
 青筋を浮かべたファイの肩を軽く叩く。
「やだなわかってるって。でもヴァリーの顔ってそんなに国民に広まってなくない?」
「顔自体はな。見てすぐに第二王子だと気付くやつはいないだろうが、こいつの容姿は特徴的だろ。印象に残るのは避けたいし、髪色はまだしもその水色の瞳はファーレンハイト王族にしかないものだ」
 言われてみて納得した。レオナも城都からは離れたところに住んでいたこともあり、自国であっても王族の顔は知らなかったのだから。
 それでもフランシスやヴァレリオに会った時、顔はわからずともその瞳に引っかかりを覚えていた。王族の象徴的な透き通るような水色の瞳は、国民ならば誰でも知っていることだからだったのだろう。
「こんな村だから問題はないとは思うが、俺が近衛兵士だってことはばれてるからな。念のためだ」
「ふーん…結構めんどくさいんだね」
 レオナのにべにもない感想に、ヴァレリオは肩を軽く竦めただけだった。
 そうして着替えてしまったヴァレリオは、確かにどこからどう見ても近衛兵士だった。比べてしまえばファイよりは筋肉の付きが劣るが、そこまで気にする人間もいないだろう。
 そして王族であるゆえの気品は、やはりその職柄によって誤魔化されている。近衛兵士といえば元より貴族出身者が多いのだから、彼が不思議な空気を纏っていようとも自然として受け入れられてしまうのだ。
「なるほど……お見事」
 ファイも揃いで制服に身を包んでいるためレオナだけ妙に浮いて見えてしまうが、仕方ないことだろう。自分は彼らと違って、貴族でも何でもないのだから。
「俺もなかなか制服似合うだろ?」
 評価して欲しそうに、ヴァレリオが背筋を伸ばして右手の拳を左胸に当てる。近衛兵士の敬礼をした彼は、確かに様になっていた。黒い髪には違和感を覚えてしまうが、それが制服の潔白感を強調させ、余計に“王子様”に見える。
「うん、似合うね。かっこいい」
 正直に褒めてやると、ファイに向かって尊大に顎を上げた。
「かっこいいってよ」
「よかったですね殿下。さ、ふざけてないで早く参りましょうか」
 なんの感情も動かさないファイに、ヴァレリオは不服そうに唇を尖らせた。
「つっまんねぇのー。てか殿下とか言ったら変装の意味ねぇじゃん」
「行きましょうか殿下」
「レオナー、お前一回も殿下とか言ったことねぇじゃんかよ」
「そんなことございませんよ? さぁ、参りましょう」
 ファイの真似をして手で指し示すと、ヴァレリオは顔を盛大に顰めた。
 彼がそんな表情をするのは珍しくて、先に行ってしまったファイを置いて二人で破顔したのだった。

inserted by FC2 system