朱の月

4話‐14‐

 やることの決まったヴァレリオの行動は早くて的確だった。
 魔道具に頼りきりだった街が正常に動くよう自身の足で街中を回って指示し、壊れた建物の再築から警備の配置、後任の選出などをほとんど一人でやってしまった。
 ファイが補佐につくこともあったが、彼一人の方が早く済むと言って、どうしても必要なことだけを指示するのと街を歩く時に側に置く程度だ。
 街がほぼ元通りに機能するまで、1週間もかからなかった。
 その間やることもなく、だが単独行動を禁じられたレオナは、食事を作ったり掃除をしたり書室に通って勉強したり、穏やかな日々を過ごしていた――のだが、それもはじめの2日間のことだった。
 主人に命じられたのか気紛れかなんなのか、ファイが稽古を付けてやると言い始めたのだ。ヴァレリオが街に出るとき以外は彼が主の側に着いていなければならないわけでもなく、手も空いていたのだろう。
 レオナとしても身体を動かすことは苦手ではなく、このままだらだらと過ごすのも時間がもったいないと思っていたので有り難いことではある。
 しかし相手がファイだ。
 彼が無意味で生産性のないことをやろうとする理由が分からず、一度は警戒して断った。すると米神を締め上げるものだから、いやいやながらも師事することとなったのだ。
 彼は容赦がない。あの師にしてこの弟子あり、ということだ。
 すぐにバテて腰を落としてしまったレオナを、平然とした様子の彼は鼻で笑ったのだ。
 普段は女性だからと言われるのも好きではないのだが、こればかりは自身の性別を声高に叫びたくなったものだ。男女では基本的な体力が違うし、それだけでなく相手は鍛え上げている近衛兵士なのだ。ついていけなくて当然ではないか。
 しかし彼の態度のせいかおかげか、負けず嫌いの心に火が付き、レオナは砂に水が沁み込むようにぐんぐん力を付けていった。
 そうしてヴァレリオがディカルストに対してことの終わりを告げる頃には、ただの賊が相手なら軽くあしらえるくらいにはなっていたのだ。
 魔力が使えないレオナにとって、護身術を身に着けられたのは有り難いことだった。
 もしかしてファイもそのつもりで教えてくれていたのだろうか。そう思ったが、脳裏に傷めつけるのが心底楽しいと言わんばかりの彼の表情が浮かんで、頭を振ってその考えを否定した。


「なに首振ってんだ?」
 上から降ってきた声に、天を仰いで返事する。
「ヴァリー。…ちょっと、嫌なもの思い出してね…」
 苦い顔をしたレオナを見て、ヴァレリオは楽しそうに破顔した。しゃがみ込んでいたレオナの隣に回ってきて同じように腰を下ろすと、腕を伸ばしてそのまま後ろに倒れた。
「しっかし、疲れたなー!」
「お疲れ様。ほんと、ヴァリーってすごいんだね」
 彼の額に濡れた布を乗せてやる。
 疲労感は欠片も見せない彼だが、この数日間、寝る間も惜しんで机に向かっていたのだ。ファイは手伝ってやっていたが、レオナはなにもできなかった。彼はそんなことは全く気にしていないようで、むしろレオナが気負うことを嫌がっていた。
 気負うくらいならせめて自分と親しい態度をとるようにと言われ、びくびくしながらも近しい存在として認められたようで嬉しかったのだ。
「だろー? これでもこの国の王子だからな。国を治めるための勉強は散々してきたんだぜ?」
 誇り高い彼。
 レオナ自身も、王としても器を持ち合わせている彼に惹かれ始めていた。もちろん、人間としてであるが。
 そんなヴァレリオだからこそ、ヘヴルシオンにとっては邪魔なのだろう。彼は強い意志と膨大な知識、疑り深い慎重さと神から与えられた運の強さを持っている。本当に恵まれた人間だと思う。
 彼がこのまま王座に着くとなれば一筋縄ではいかない。
 ただヴァレリオには兄がいるし、王位継承権も二番目ではある。しかし今王宮内でヴァレリオ派とフランシス派の派閥ができているのならば、まだ分からないということだ。現王も実力を重視するような人間だというし。
 噂程度しかフランシスのことは知らないが、ならばヴァレリオが王になる可能性も充分にあるというものだ。
「そいえば、ファイに剣習ってたんだって? どうだったよ、あいつの教えは?」
「剣の教え方について? 教える態度について?」
 嫌そうな顔で逆に問いかけたレオナに、ヴァレリオはひとつ喉で笑ってから前者だと言う。
「教え方はまぁなかなか上手いんじゃない?」
「おぉ、不服そうだなー」
 額に乗せた濡れ布をめくってこちらに視線を向けてきたのが分かったが、前を向いたまま行儀が悪いと思いながらも足に肘をついて顎を乗せた。
 目を閉じて不満を口にする。
「そりゃね、私が充分なほど剣を使えるようになったのは教え方が上手いからだけどさ、性格悪いのよ、あいつ」
「態度についての不満になってんじゃねぇか」
 カラカラと声を上げて笑いだしたヴァレリオのことは放っておくことにする。今はあの性悪の溜まりに溜まっていた不満を吐きだしたかったのだ。
「だって聞いてよ! 口では確かに正しくて分かりやすいこと言ってるけどね、態度がひどいの態度が! ちょっと私が判断ミスしたらすっごい蔑んだ目で見てくるのよ!? 私が必死に剣受けて身体に痣とか作ってるのにも、本当に楽しそうな顔で笑うんだから!」
 ついにヴァレリオは腹を抱えて笑い始めた。
 彼の足を軽く叩く。
「ちょっと? なんにも楽しくないんだけど?」
「あいつもしっかり師匠に似てきてんじゃねぇか。レオナも似るんじゃね?」
「それ言うならヴァリーだと思うよ。幼馴染なんでしょ?」
 レオナの言葉に目を丸くして固まった。
「た、確かに…。それは盲点だった…」
 深刻そうに呟いた彼の様子に、今度はレオナが噴き出す番だった。
 王子だということを忘れてしまえば、彼はなんとも話しやすい相手だ。話は面白いし、人をからかうのが好きなようだが人の心の動きをよく見て言葉を選んでいる。なによりも年が近いからだろう。
 ヴァレリオはレオナより3つ上の22歳。ユーリもレオナとは3つ離れているだけではあるが、彼は実年齢よりも幼く見えてしまうせいでどうも子どもに対するように接してしまうのだ。ファイはいくつか知らないがもう少し年上だろうし、彼とはなんとなく一線を引いている自分がいた。



 久しぶりにのんびりとした空気のまま会話をしていたが、ふと気付いた。彼がこうして長い時間なにもせずにレオナと他愛のない話をできているということは、まもなく終わりそうだと言われていたディカルストの混乱を治めることができたということだろう。
 それにしては、すっかり身に馴染んでしまった首飾りを早く取るためにランカを訪ねたいと言っているのに行動に移る気配はない。疑問を言葉に乗せる。
「あれ? もう全部終わったんだっけ?」
 ヴァレリオは首肯する。
「やっとな。この街は、もとはかなり精力的なやつの集まりだから、ちょっと道を示してやれば早かったな。あとはほら、ファイって意外と事務仕事もできるんだぜ?」
「あ、ファイのこと忘れてた」
 そういえば彼の姿を今日は一日見ていない。朝から一度も顔を合わせていないし、ヴァレリオと話に花を咲かせてしまったからすっかり忘れてしまっていた。
 本気で言ってのけたレオナに、ヴァレリオが膝を叩いて笑う。
 少しして笑いが収まったかと思うと、口元は笑ったまま、水色の瞳には真剣な色を堪えて口を開く。
「んでさ、レオナってファイのことどう思ってんだ?」
「性悪」
「辛辣だなー! ま、性格が良いとは言わねぇけど、それだけって訳じゃねぇだろ」
「意味がわかりません」
 質問の意図が分からない。
 首を傾げると、ヴァレリオは目を閉じて笑う。再び瞼を上げると自然な動作でレオナに近づき、目を強く覗きこまれた。
「俺はあいつのことを評価してんだ。あいつには救われてる。だから俺も力になってやりたいと思うし、俺に縛られずに自分の幸せを早く掴んで欲しいとも思ってる。よかったら、あいつのこともらってやって欲しいんだよな」
「寝言は寝てから言ってよ」
 冗談で言ってるんじゃない。本気で言っていることは彼の目を見れば分かる。
 だからこそどういう反応をすればいいのか分からなくて、視線を外して乾いた笑みを零した。
 彼は知らないのだ。レオナが、兄に恋していること。彼以外の男なんて考えたこともない。
 ファイのことは、ヴァレリオの言うようにただの性悪と思っているだけではない。国のことを本気で考えている姿や、民を、ヴァレリオを…レオナを守ろうとしてくれている広い背中、稀に見せる優しい笑顔を知っている。彼の強さも知った。
 だからといって彼のことを好きになるのとは違う。
 どうしても諦めることができないまま、もう15年もひたすらにジェイクのことだけを想っているのだ。この気持ちは風化しないしさせるつもりもない。彼にきっぱりと振られるまでは終われないのだ。
「私は、ファイに向けられる心を持ってないよ。私にファイは…もったいない」
「俺がなんだって?」
 突然の声に肩を跳ねさせた。
 声の主なんて、姿を見なくても分かる。だからこそ振り向けない。ヴァレリオのことを見ることもできず、膝に視線を落とす。
 小さく息を吐く音が聞こえたかと思うと、痛いと感じるくらいの力で頭を掻きまわされた。
「わっわっ! な、なに!?」
 慌てて髪を整えながら彼を見上げると、話の中心人物だったファイが胡乱な眼で見下ろしていた。
「別に。不愉快だった」
 そっけなく聞こえる声音ではあるが、少し頬が赤くなっている気がした。
 ヴァレリオも立ち上がって彼の隣に並ぶと、一度にやりと笑ってからレオナに手を差し出した。
「姫、お待たせ致しました。貴女を自由にして差し上げましょう」
 演技かかった動作で片膝をついて優雅に笑ってみせる彼は、まるで物語にでも出てくる王子のようだった(実際、本物の王子であるのだから妙な感想ではあるが)。
 その美しさに見惚れて一瞬忘我したレオナはしかし、すぐに微笑んでその手を取った。
「私にはもったいないお言葉ですわ。貴方様のお傍にいることが私の幸せなのです」
 初めて口にするような言葉遣いはミシェルのものを真似たのだが、うまくいっただろうか。
 そのまま助けを借りて立ちあがり、ヴァレリオと目を合わせて二人で笑い合った。それを傍目から見ていたファイは、呆れたような子を見守る親のような優しい瞳をしていた。
「馬鹿やってないで早く行くぞ。王都も余り空けていたくないしな」
「俺がいない間は親父がなんとかやってるだろ。病に伏せてようが、あれでもこの国の王だぜ?」
「陛下を信頼していないわけではない。ただ俺の目で現状を把握したいんだよ」
 ここからなら馬を走らせて2日もしないで村に着く。解析がどうであろうと、1週間もかからずに王都には戻ることができるだろう。
「やっとそれ、とれるかもな」
 指された首輪に触れる。もうすっかりそこにあることに馴染んでしまった、冷たい金属。
「外したいけど、これなくなるのってちょっと違和感あるかも」
 冗談で呟くと、ファイに頭を小突かれた。
「お前なぁ…」
「ファイ、女に手上げてばっかいたら嫌われるぜ?」
「ファイってモテなさそうだよね」
「女官たちは表面しか知らねぇから騒いでるけどよ、実際モテないぜー? あ、でも遊び相手には、」
「ヴァリー! 余計なことは言わなくていい!」
 三人で笑い合うこの空気が好きだった。
 魔術が使えない不安を感じさせなくしてくれたのも、彼らの楽観的にも思えるなんてことない日常のおかげだ。
 それも首飾りを取ればおしまい。ヴァレリオは王宮の執務室に――レオナとは別の世界に戻ってしまうし、ファイだってヴァレリオの補佐に回るだろう。なにかヘヴルシオン絡みの事件が起きなければ彼と行動することもない。
 今では信頼してくれているであろうファイの許可を取って、レオナは王宮の援助の元、また一人でジェイクを捜しに行く。
 それがしたかったことなのに、なぜか寂しさを感じている自分がいた。

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