朱の月

4話‐13‐

 どんっと背中に衝撃が走り、前のめりに手を付いた。
「……なにしてる」
 腰を抑えながら振り返ると、ファイがひどく冷たい目で見下ろしていた。その背後には、呼ばれていたディカルストの男。
「あ、ははは……。失礼しました…」
 もう話が終わったのだろう。随分と長く腰を下ろしてしまっていたようだ。
 笑顔で誤魔化しながらいそいそと退く。
 ファイが丁寧な対応で彼を階段下まで送り届けて、すぐに戻ってきた。
「まだいるのか」
 いつまでも中に入ろうとしないレオナを怪訝そうに見る。
 なんだか入りにくくなってしまったのだ。悶々とジェイクのことを考えていたり、自分は所詮王宮の人間ではないし、などと落ち込んでいたりしたので、なんとなく後ろめたい。“王子”に、会いたくない。
 説明できない気持ちを持て余して、所在なさげに腹の前で手を組む。
 はっきりしないレオナの態度に焦れたファイが、扉を開けるとレオナを押し込んだ。
「ちょ、」
「なに考えてるか知らんが、お前の思考は後ろ向き過ぎる。もう少し楽観的になったらどうだ? ……いい手本が、あそこにいるだろ」
 顎で示したのは、彼の主人である。
 主人に、王子にそんな態度でいいのかとも思うが、彼らの関係ならばありだろう。微笑んでなぜか手を振ってくるヴァレリオの様子にも、つい笑みが零れた。
「さて、これからなんだけどね、ビビアーナは先に王宮に戻ってもらう。彼をどうにかしないと」
 ヴァレリオが指差した先には、不可視を解いたエフライムが横たわっている。相変わらず気持ちよさそうに眠っているようだ。
 彼は今、ビビアーナの術によって眠らされている。ビビアーナでは彼と直接戦っても勝ち目はない。そのため、強制睡眠状態にして行動自体を防いでいるのだ。
 しかしこのままでは事情を聞くことすらできない。王宮ならば時間をかけて空間を造り、そこでエフライムを無力化できるそうだ。ビビアーナが離れてしまっては術が解けてしまうので、彼女が最後まで彼を受け持つことになった。
 全員で戻るのが望ましいのだが、未だ混乱状態のディカルストを放置していくことはできないとヴァレリオが強く主張し、納得した。
「では、私は一足先に戻らせていただきます。……殿下、王宮でお待ちしております」
「あぁ」
 平然と答えた主になぜかビビアーナは不安を消すことはなく、僅かに眉尻を下げて腰を折った。
 彼女が再び手をかざすとエフライムの姿は見えなくなり、外套を深く被って部屋を後にした。



「ヴァリー、今のはどういうことだ」
 堅いファイの問いに、ヴァレリオは顎を尊大に上げた。
「なんのことだよ?」
「ビビアーナが言外に注意を促してただろうが。俺に隠し通せると思うな」
 強い調子で詰問すると、大袈裟に腕をさすって先ほどとは対照的に上目遣いをしてみせる。
「こっわーい。そんな鬼みたいな顔しないでー?」
「気色悪い声出すな…!!」
 ファイが拳を落とす。
 やはり大袈裟に頭を抱えて悶えながら、ヴァレリオは横目でちらりとこちらを窺ってきた。
 その目は、鋭い光を宿している。
「ご名答。俺は今、ひっじょーに危うい状況にいる。お前が王都を離れている間にな」
 相変わらず軽い口調ではあるが、内容は決して口調通りのものではなかった。隣でファイが息を呑んだ。
 彼がなにか言いだす前に、背もたれに大きく体重を預けたヴァレリオが制止するように手を前に出す。
「お前のせいじゃない。俺がなにか問題を起こしたんでもねぇよ? ただ…今の王宮は不穏な空気が充満してる。完全に俺に不利なように」
 これこそ本当にレオナが聞いていい内容ではない。吃りながら自分は外にいるから待ってくれと動作で伝えると、ヴァレリオに腕を掴まれた。
「え、あ、あの…」
「いいって。レオナってこっち陣営だろ?」
「ヴァリー、そいつを巻き込むのは、」
「一番巻き込んでるお前が言うなっての。そもそもソレ、着けられてんのもお前と一緒にいる時だぜ?」
 返す言葉もないファイは小さく舌打ちしたが、彼の主は意に介した様子もない。
 レオナを放してやってから、前の椅子に座るよう促される。あまりに拒否してばかりだったし、もうどうにでもなれと自棄になった部分もあったので、大人しく従った。
「正直な、俺にもどうなってんのかわかってねぇの。ただ、俺と親父を貶めようとしてるやつがいるらしい。フランシスに肩入れてて、あいつも俺の言うことになんか耳貸しやしねぇから、悪化するばっかだし」
「黒幕は分かってないのか」
「黒幕って言っていいのかわかんねぇけど、グルトがフランシスと親しげにしてんだよ。それが原因かはわかんね」
 グルト。その名に聞き覚えがある。が、思い出せない。
 顎に指をかけて思い出そうとしていたら、ファイが補足してくれた。
 グルト公爵――今この国で、王の次に権力を持っている男だそうだ。随分と長い間他国との諍いがないファーレンハイトだが、それでも数十年前は数えるほどではあるが戦争もあった。その時、王と対立して出兵を勧めていたのが彼。結局王と専魔師長の強い反対にあい、彼の意見は通ることなく、こうして平和を手に入れているのだ。
 それ以降公爵はすっかり大人しくなり、多少ファイやヴァレリオに苦言をしてきたりはするが、表舞台に率先して出てくることはなくなっていた。だからこそあまり執拗に彼を疑って動くこともできないそうだ。
「親父が倒れたこと、知ってるか? そんなとこにこれだからな、身辺を本当に信用できる専魔師と数人くらいしか近づけないようにしてる。まぁ不自然にならない程度に、だけど。ベティスのこともあるから、用心しとくに越したことはない」
「それなら余計にお前がここまで出てくるのは、」
「俺が動かなくて誰が治めんだよ。俺はなぁ、ヘヴルシオンの内通者がいるとも思ってんの。自分で動くのが確実なんだよ」
 今度こそファイは額に手を当てて深く息を吐いた。
 もしヘヴルシオンに寝返ったエフライムの対処をいるであろう内通者に任せていたら、ディカルストは崩壊していたに違いない。何人いるのかも誰なのかも分からない状態で派遣するよりは、ヴァレリオが動いた方が確実ではあるのだ。
「あぁー…もういい、それはあとだ。ビビアーナを先に帰してどうするつもりだ?」
 決して愉快な場面ではないのだが、ファイが悩んでいるのが楽しいのか口角を上げた。
「ひとまずここが落ち着くまでは離れられねぇな。あいつが冷静にまとめられるようになるまではな」
 ペンを唇で挟みながら、目を閉じて頭の後ろで手を組んだ。



 しばらくはファイが警護と補佐をしつつヴァレリオが指示を出して混乱を治めるということが決まり、彼らは2人でよくわからない話を進めている。
 上手く街が動くようにするとか民の不満を治めるとか、そういったことは全く手出しも手伝いもできない。
 暇を持て余し、寝台に腰掛けて足をぶらぶらさせていたレオナは、自分では見ることのできない首飾りに触れた。熱のない、冷たい金属。彫られている文様を微かな凹凸で感じることができるが、読みとれはしない。
(これ、いつ、どうやったら取れるんだろ…。魔道具だろうけど、私は詳しくないし…専魔師でも分からないっていうし…)
 不快感にはすでに慣れたが、やはり着けていて気持ちのいいものではない。魔術が使えない自分なんて役立たずにもほどがあるとわかっているし。
 なによりも、なにかあるというわけではないのだが不安で心許ないのだ。
 レオナではどうしようもないそれを指先で叩いていると、ふと気付いた。
(そっか、これ、“魔道具”なのかな)
 魔道具ならば、他の追随を許さなかった者がいた。
 元専属魔術師のアドルフだ。
 彼は亡くなってしまったが、その彼の弟子として共に過ごしてきていた人物は健在である。その実力はわからないが、レオナがこうして一人で考えているよりも手掛かりを掴むことはできるだろう。
「あのー…はい」
 おずおずと挙手すると、二人の視線が向けられる。
 片手で首飾りを指差しながら、考えていたことを言葉に乗せた。
「これ、もしかしたらランカならどうにかできないかなと思って。アドルフさんと魔道具の研究してたんだし、私よりは解析もできると思うんだよね」
 ファイが軽く目を瞠り、ヴァレリオは眉を寄せた。
 ランカのことを知らないらしい彼に、レオナが簡単に補足してやる。
「そうだな…失念してた。ランカがどの程度アドルフ殿の技術を受け継いでるかはわからんが、このままでいるよりはましか」
 顎に指をかけて頷いたファイの判断に、ヴァレリオも任せたようだ。
「そいつ、どこにいんの? てか信用していい人間か?」
「彼女は師をヘヴルシオンに殺されている。魔力的には大したことないらしいし、寝返ることはないだろ」
「え、と、あんまり一緒にいたわけじゃないけど…ランカは信用しても大丈夫だと思う。意志は強そうだったし、善悪もはっきりしてるみたいだし、話した感じでは…」
「ふぅん…? それでもいいけど、行くのはまだ時間かかるぜ? 最短でも一週間はかけないと平穏を持続させられない」
 レオナは首を傾げる。
 どうやら彼らは3人揃って行動するということしか念頭にないようだが、レオナは違うことを考えているのだ。彼らの時間を取ろうとは思っていない。
「私一人で行ってくるよ。それほど遠くもないし」
 軽い気持ちで言った言葉に、大きく反応したのはファイだった。
「駄目だ。そんなことさせられるか」
「え、なんで? 私はここに残っても手伝えることなんてなさそうだし、ランカに用があるのは私だけだし。その方が手っ取り早いでしょ」
 ファイはなにかに気付いたように視線を外して舌打ちをする。
「あーだからだなー、魔術も使えないお前を一人で行かせるわけにはいかないんだよ」
「なんで。魔力も出てないみたいだから、捕縛されることもないと思うよ? そもそも、王子様と違って私自身は狙われてないじゃない」
「違うんだよ! だから、」
「なにがだから? 私のことなんだよ? 一人で国内うろうろしてたことだってある。そんなにか弱くもないよ」
 確かに魔術を使えないことは不安ではあるが、だからといって一人で行動できないほど臆病ではない。
 ランカの住む村は、王都に戻る途中にある駅で列車に乗れば比較的近い位置にあるのだ。列車の安全は王宮が保証しているではないか。
 ファイは歯切れが悪くも許可しない。
「もう、なんなの! 言いたいことがあるなら言えばいいじゃない! 頑なに駄目だって言われても理解でいないよ」
 声を荒げると、苛立っていたファイも立ち上がって眉を吊り上げた。
「駄目なもんは駄目だって言ってんだろうが! 少しは聞き分けろ!」
「だーかーらー、説明してって言ってるの!」
 一向に譲る気配のない二人を止めたのは、意地の悪い笑みを浮かべているヴァレリオだった。
「まぁまぁ落ち着けって。心配なんだよ、ファイは」
「心配? 過保護にもほどがあるわよ」
「ってめ、過保護ってなんだ過保護って!」
 苛烈さを増した舌戦だが、ヴァレリオはファイを手で制してレオナの肩を抱いた。
 ファイに背を向けて顔を近づけて囁く。
「レオナもさ、理不尽だとは思うけどここは引いてやってくれよ。あいつ心配してんの。一緒にいたのに魔力封じられちゃってるじゃん? それで自分の手の届かないところで怪我とかなんか変なことに巻き込まれてみ? 一生後悔すんね」
「――…私は、手を組んでるだけで王宮の人間でも保護対象でもないです」
「あいつにとっちゃそれだけじゃねぇってこと」
 尚も納得せずに口を開くが、背をぽんぽんと叩かれて、片目を瞑られた。
 一瞬の間にするりとレオナから離れてファイを宥め始めてしまったヴァレリオに、これ以上言及することはできなかった。王子に言われてしまえば、レオナに逆らうことなどできようもない。
「もう…なんなのよ」
 腕を組んで独白したレオナだが、心配などされ慣れていないせいで自然と頬が赤くなってしまったのを隠そうとするあまり、行き場のない怒りはあっさりと消えていたのであった。

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