朱の月

4話‐12‐

 身体が重い。頭も、――頭というか、意識だろうか…深く深くに沈んでいくようで、思い通りに働いてくれない。意識を失ってはいけない時だったはずだ。しっかり支えてやらなければいけない時だったはずだ。
 ファイは無事だろうか。せっかく役に立てていたのに、すぐに力が抜けるようになって倒れたのだ。そこから先、いったいどうなったのかわからない。
 離れたままのヴァレリオとビビアーナは、彼らの思惑通りエフライムに接触できたのだろうか。自分がこう言うのも失礼かもしれないが、彼らだけでエフライムをどうにかできるとは思えない。早く、ファイと一緒に合流しなくてはならないだろう。
 そんな今、温かくて柔らかいものに包まれている。
 なんだろう。すごく、落ち着く。起きたくない、まだ、このまま抱かれていたいとさえ思う。
 ふと息が苦しくなってきた。呼吸が、できない…?
「――!!」
 急に意識が覚醒し、紫銀の瞳を大きく見開くと、目の前にファイの顔があった。
「――っうわぁ!!」
「うるさい…!」
 声を上げたら離れるどころかそのまま頭突きされた。
「こらこら、女性に暴力はいけないよ」
「頭突きって頭悪そうな黙らせ方ですね」
「うん、色気もないね」
「女性から人気があるとお聞きしますが、どうも信じられません」
「……殿下、そもそも彼女をひどい方法で起こしたのは殿下でしょう…」
「鼻を摘むとは、さすが殿下、斬新ですね」
 ヴァレリオとビビアーナの至極勝手な言い分は、まったく耳に入ってこなかった。上から落とされるファイの溜息だけが妙に耳につく。
(な、なななななになになになに!? なんで私ファイに、え!?)
 混乱している。
 ファイに抱きかかえられていて、身体は重くて、顔が熱い。心臓が胸を突き破りそうなほど跳ねている。今の自分は絶対顔が真っ赤だ。
 そんな自分が恥ずかしくて、見られないように顔を覆う。
「体調はどうだ?」
「え、え、と、た、体調…?」
 吃っているレオナを見て呆れた顔をしたファイが、再び顔を近づける。
 内心で悲鳴を上げるが、抱きあげられているので逃げることもできず、急いで目を堅く閉じた。
「別に熱とかはないな。顔色も…良くはなっているか」
「熱? 顔色…?」
 体調のことを気にされていると気付いてみると、頭に靄がかっているように感じた。少し気持ち悪い。
 途端に顔色を再び悪くしたレオナを、脇からビビアーナが覗く。
「先程、突然レオナさんの魔力を感じなくなりました。グローリー様が報告されたことと、関係が?」
「あ…」
 この不快感は以前のものと同じだ。キーラと戦っている時に、急に魔力を感じなくなった、あの時と。
 意識してみれば、魔術を使えないどころか魔力を感じられない。
「同じか」
「うん…。魔力を扱えないし、全く感じない…」
 ファイに返事してから、はたと固まった。
 だから、なんで、自分はファイに。
「お、おおおおお降ろして! 大丈夫、歩けるから…!!」
 彼の胸板を両手で押す。
 だめだ、こんなに近くにいられない。
 ファイも抱きあげたままでいたいとは思っていなかったようで、レオナの様子に眉を寄せながらも優しく降ろしてくれた。
 足を地に着けたら少しふらついてしまい、彼が支えてくれた。恥ずかしさを誤魔化すために咳払いをしてから、小さく礼を言う。
 まだ術のかかった洞窟の中だった。作動しきった罠が左右前後に散らばっているから、来た道を引き返しているようだ。ずるずると、なにかを引き摺っているような音が聞こえる気がする。
 いつの間にか合流できていたヴァレリオとビビアーナは見る限り怪我など一切していないが、引き返しているのならばエフライムはどうにかしたのだろうが、どうやったのだろう。
 ファイと戦っていたガジェットの姿もない。彼は一戦交えた、という様だが、結果がさっぱりわからない。なぜレオナは気を失って、ファイに抱きあげられていたのか。
 さっきの至近距離で見たファイの顔を思い出してしまい、また顔が熱くなった。


「それで、どういうことかな?」
 ヴァレリオの朗らかな声が聞こえて、慌てて彼の方を向いた。
「彼女の魔力が感じられません。彼女自身もそのようです。方法は不明ですが、見事に封じられています」
 レオナに代わってビビアーナが説明してくれたので、ただ頷いた。
 この短期間で同じような状態にされているのだから間違いはない。
「ふぅん…それ、レオナは自分では取れないの?」
「それ?」
 ヴァレリオに首を指差され、視線を下ろす。そこには見たこともない首飾りがあった。いつの間に着けられたのか…全く記憶にない。
 気味が悪く、外そうと首の後ろに手を回してみたのだが、
「あ、あれ……? 外せない……」
 自身の首なので直接見えはしないが、大層な造りには思えない。よくある首飾りのように接続部分はあるのだが、そこをどう弄っても一向に外れる気配がなかった。
 焦りが生まれてきたレオナに、ヴァレリオが軽い声を掛ける。
「まぁそうだろうね。あぁ、それはもう気にしなくていいよ。不快感が続くかもしれないが、ちょっと我慢してくれ」
 我慢してくれと言われても、不安は増すばかりだ。
 このままでも命を落とすことはないだろうが、常に身に纏っていた魔力が感じられないのだ。己のものだけではない。周りの魔力や、魔力を使って読んでいた気配までもが感じられないとなると、丸裸で歩いているような、そんな心許ない気分になる。
 その思いが表われていたのだろう。ファイが微苦笑して肩に手を置いた。
「そんな顔するな。俺たちではなんともできないが、当事者に吐かせるさ」
「当事者…エフライム? あ! どうなったんですか!?」
「ビビアーナ」
 微笑んだヴァレリオに応えたビビアーナが、手をそっと脇の空間にかざした。
 するとなにもなかった空間が歪み、布をはいだように一人の初老の男が現れたのだ。白髪混じりの銀髪はぼさぼさに乱れ、見るからに上質な服は土埃に塗れて一部破けてもいる。身体にはきつく縄が絞められており、それはビビアーナの手中へと繋がっている。
 先程からなにかを引き摺っているような音がしていたのは、これだったのか。
 おそらく、彼がエフライム。今は魔力を感じることもできないが、彼以外の人物をこんな雑には扱わないだろう。なぜか爆睡していて起きる気配はない。
「彼はこの通り、眠ってもらっているよ」
「この通りって……あの……か、勝てたんですか?」
 無礼を承知で聞いた。語尾がどんどん小さくなりはしたが、届いているはずだ。
 ヴァレリオは顎を軽く上げ、尊大に、不敵な笑みを浮かべた。
「当然だろう? いくら元専魔師だろうと、穴はあるものだよ」



 洞窟内に違和感を放ちながら鎮座する扉を抜けると、元通りのディカルストの街並みが目に飛び込んできた。
 夕陽の眩しさに目を細めて見えたのは、屋敷から伸びる通りに、彼らが戻ってくることを待ち侘びていた民でごった返していた景色だった。
 民の姿を認めたヴァレリオが、微笑を浮かべて軽く手を挙げる。
 途端に歓声なのか悲鳴なのか嬌声なのかよくわからない声がうねるように上がり、ビビアーナがさり気なく周りに術をかけた。聞こえないまではいかないが、大分緩和される。
 蛇足だが、未だに夢の中のエフライムは再びビビアーナの術によって姿を隠されている。
 ファイがヴァレリオを守るように人を避けさせながら先頭を進み、ビビアーナが主の一歩後ろにつく。自身の立ち位置が分からず困ったレオナは、ファイを見習って民を宥めることにした。
 構わず話し掛けてくる彼らに対してヴァレリオが笑顔で応えるものだから、予想よりも大幅に時間を掛けて用意されていた宿に戻った。
 ファイはエフライムに次ぐ責任者だけにこれから30分後に部屋に来るようにと伝え、解散を命じる。彼らは渋々ながらも近衛兵士に逆らうことはできないと判断し、そのまま散り散りになった。
 部屋に入って外部の目がなくなったところでようやく、彼は大きく息を吐いたのだった。
「まず言わせていただくのならば、ご無事でなによりでございます」
「ファイも無事とは言えないけど、生きてくれていてよかったよ」
 全く反省の色がないヴァレリオにそこからファイの小言が始まったのだが、関係ないからとレオナとビビアーナは我関せずで話し合っていた。
「私の魔力、感じますか?」
「……いえ」
「これは?」
 腕に触れられる。
 通常ならばそこから流れ込んでくるように魔力を読みとれるのだが、今はただ少し冷たい体温を感じただけだった。力なく首を振ると、今度はまじまじと首を見詰めてくる。
「完全に魔力を封じているようですね。私のほうも全く入り込めませんし、それどころか霧散していくような感覚すらします」
「え、そんなにですか?」
「奇妙ですね。この石が核になっているのは間違いありませんし、文様も刻まれてはいますが、短すぎます。魔力も通しませんし、詳しく調べたいんですが…外れませんしね」
 表情が動かないながらも、ビビアーナの目には「残念」の二文字がありありと浮かんでいる。
 それはレオナも同感だ。自身の首に摩訶不思議な魔道具(であろうとしか言えないが)が着いているというのに、調べられないどころか外せもしないのだ。魔力を封じられている不快感は続いているし、早くどうにかしたい。
 その時控え目なノックが鳴り、ファイが苦い顔で咳払いして入るよう促した。
 姿を現したのは、強い意志を瞳に宿している、エフライムと同年代くらいの男性だった。眉間に深い皺を刻み、腰を折った。
「この度は、ヴァレリオ殿下の御手を煩わせることとなり、大変申し訳御座いませんでした。そしてディカルストを救ってくださったこと、深くお礼申しあげます」
「礼には及ばないさ、当然のことをしたまでだ。…顔を上げてくれるかな」
 ヴァレリオの言葉にも、彼は頭を下げたままだ。
「当然ではありません。私たちは、私たちでこの街を守っていくのだと誓ったのです。それが…まさかエフライムに裏切られることとなるとは……。言葉も御座いません………」
 言葉は震えていた。
 エフライムを止められなかった悔しさと、不甲斐なさと、裏切られた悲しさが伝わってきた。
 自分がここにいてはいけない気がして、レオナはそっと立ち上がって部屋を出て行く。王宮の人間ではなく今回なんの役にも立っていない自分は、彼の悔恨を聞いていられない。
 魔伎であるというだけで他に身分もないのだから、せめて魔術で活躍しなければいる意味がないのに。
 しゃがみこんで扉に背を預けた。空を仰ぐ。
 瞼を下ろし、暗闇に愛しい男の顔を思い浮かべて独白する。
「兄さん…なにをしたいの? なにをしてるの? ……私、どうすればいいの…。……会いたいよ…」
 会いたい、声が聞きたい、笑いかけて欲しい、抱きしめて欲しい。
 そうすれば自分の意味なんて考えずにただ幸せを感じていられるのに。彼の気持ちを自分に向かせられたらこれ以上のことはない。でもそれは叶わないと分かっているから、せめて隣にいたい。
 もうどれほど会っていないだろう。声を聞いていないのだろう。
 すぐに思いだせるけれど、それは所詮記憶でしかない。今、彼がどんな顔で笑ってどんな声で話して叱ってくれるのか、レオナにはわからないのだ。
 なにが彼を追い詰めていたのだろうか。レオナが側にいたのに、それを捨ててまで得たい“居場所”とは人を殺すことなのか?
 レオナでは、彼の“居場所”には、なれなかったのだ。
「私こそ、居場所がわからないよ…兄さん…」

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