朱の月

4話‐11‐

 剣を受けるたびに痺れが走り、柄から手を離してしまいそうになる。痛みや疲れを感じていないのか、未だに嬉々として剣を振るってくる男に、余裕があれば唾棄したいくらいだ。
 そんな余裕は残念ながらないし、今はこれ以上の贅沢は言えないだろう。
 心なし身体が軽くなって、ガジェットの剣の重さすら軽くなったように感じている。
 これも、レオナの術のおかげだろう。
 彼女がなにか詠唱をしていると思ったら、不意に身体が包まれたのを感じた。ファイには魔力を感じることはできないが、それでも温かさを感じるような術。
 この狭い空間では魔術による援護は受けられないと思っていた。ましてやレオナは、ガジェットに心の傷を思い出させられているに違いないのだ。
 目の前で誰かを亡くすなんて、経験したこともなかっただろうから。
 胴を薙ごうと振られた切っ先を、身体を反らせて避ける。下げた片足に重心を乗せ、もう片方で手首を狙って蹴りあげた。王宮近衛兵士としては手本にならない奇抜で雑な攻撃だが、ガジェットはそれを喰らいはしなかった。
「兄ちゃん、近衛兵っぽくねぇなぁー」
「師のせいだな」
 がさつ、という言葉がこれほどまでに似合う人物は他にいないと言えるほどの豪傑である師。良くも悪くも、彼女からは多くのことを学んできているのだ。だてに命を賭けていない。
 そんな近衛兵としては型破りのファイの剣も、殺し屋として名を馳せたガジェットには対して通用しない。彼の方がそういった型のない剣には慣れているのだ。一回目だけは意表を付けるかもしれないが、次はない。
(さて、どうするか…)
 自分の方が劣勢であることは分かっている。が、勝ち目がないとは思わない。
 ある程度の距離を取って、一息ついた時だった。



 急に身を纏っていた気配が消えた。
 身体が元の重さを取り戻し、同時に激しく動揺する。
「――なっ!」
 彼女のいた場所を見ると、男に腕を締め上げられている姿があった。見る限り魔術師でもない男に取り押さえられていることに疑問が浮かぶ。そんな簡単に捕まるような女ではないのだが。
 さらに血の気が引いたような青白い顔で、だらりと項垂れている。いったい何が。
「よそ見してんじゃねぇぞ?」
 一瞬の隙。
 それを見逃さず繰り出された強烈な斬撃を、かろうじて剣で受けた。甲高い金属音が響く。
「お前…まだ仲間がいたのか…!」
「そりゃあなぁ。俺らにだって、目的ってもんがあんのよ」
 ガジェットが首を鳴らす。
「トリスさん! この女どうしますか!?」
「あぁー、殺すなよ。嬢ちゃんは連れてかないとならねぇからなぁ」
 レオナを捕えているのは、やはり下っ端のようだ。
 ガジェットのおざなりな指示を受け、拘束がしっかりしているのを再確認しているのが目の端に映る。
「あいつを連れていく? なんのために」
「それは、教える必要はねぇよな」
「――させるか!!」
 隠し持っていた短剣をガジェットに向けて投擲する。
 あっさりと叩き落とされるが、その間にレオナの方へ駆けた。体格や身のこなし方から、男は戦闘に慣れていないと看做し、一気に間合いを詰める。
 ガジェットに背を向けて自分に向かってきたファイにあからさまに狼狽えた男は、ない頭で必死に考えたのだろう。レオナを盾にした。
――…クズが。
 唾棄したい気持ちを抑え、男の目前で一歩右に踏み込む。反応しきれていない男の腕をなんなく切り落としてレオナを抱えると、醜い断末魔が響き渡った。
「う、うう腕がぁぁあああ!!!」
 すっかり取り乱している男の背を蹴り倒して踏み付け、首筋に剣を当てた。
「残念だったな。こいつは渡さない」
 この男が現れたとなっては、仲間は他にもいる可能性がある。
 壁を背負い、ガジェットから視線を外さずに警戒を深める。
 仲間を戦闘不能に、それも人質としてとられてしまったガジェットはだが、余裕の表情を変えることなく、むしろ至極愉快そうに顔を歪めている。
「兄ちゃん、やっぱ腕上げたなぁー。なにしたんだ?」
「教える必要はない。去れ。そうすれば、この男の命までは取らない」
 ファイの言葉に失笑したヘヴルシオンの殺し屋は、軽く手を振った。止める間もなく、足元から潰れた声が短く上がる。
「それ、返しとくぜ」
 男の頭を貫いているのは、ファイが投擲した短剣。
「俺はなぁ、兄ちゃんのこと認めてんのよ。組織に欲しい」
 殺意を消したガジェットは、大きく手を開いて芝居がかったように続ける。それでも、隙はない。
「俺は強い奴が好きだ。死を恐れない奴が好きだ。無謀な奴が好きだ。――で、死にたくなくて自分が嫌いな奴が好きだ。そんな雑魚、俺にとっちゃどうでもいいんだよ。必要ねぇからな」
 あの男がガジェットに利をもたらさないのは、ファイとてわかっていた。あんな、大して速くも奇策でもない攻撃を防げない程度なら、いないのと同義だ。だからこそ、止めようと思えば止められたファイの攻撃をみすみす見逃して、どう対処するのかを見ていたのだろう。
 ガジェットならば、一人でもファイの相手をしながらレオナを捕獲することも可能だ。多少の手間と労力がかかるくらいで。
 そのため、この状況は非常に不味い。
 レオナに意識があればまだ援護を期待できるし、彼女自身が抗うだろう。しかし意識を失っているとなってしまっては、庇いながら戦わなくてはならない。
 相手はガジェット・トリスで、他に仲間が隠れていないとも限らないのだ。

 …不利すぎる。
 ガジェットへの警戒は怠らないまま、ひっそりと息を吐く。本当に、剣技や殺し屋という立場だけでなく、この男はやりづらい。
「兄ちゃんのことは殺せって言われてるんだが、諦められなくってなぁー」
「諦めるんだな」
 即答するファイにもめげることなく、太い指で顎を撫でる。
「残念だねぇ」
 どうする。
 今ガジェットには戦意がないようだが、このまま見逃してくれるとも思えない。かといって、この状態ではファイに勝ち目はない。彼女が意識を取り戻すか、ヴァレリオ、ビビアーナと合流できれば違うのだが。
 いや、そんな可能性の薄い考えを巡らせてもどうしようもない。
 不意に腕の中のレオナへ視線を落とすと、首元に見覚えのない首飾りがついている。深い、血のように赤く小さい石が付いているそれは、首飾りというより首輪に近い、小指程度の太さの金属具だ。
 顔色はさらに白くなっているように思える。
「あぁ、安心しろよ。死にゃしねぇさ」
 レオナを見て眉をひそめたファイに、ガジェットが軽く声を掛ける。
 やはりあの首輪はやつらの仕業か。彼女が意識を失っているところをみると、誘拐や捕縛のための魔道具と考えていいだろう。連れていくと言っていたし、本当に殺す気はないようだ。
 ヘヴルシオンが彼女を連れ去ろうとする理由は、ファイには見当もつかない。魔術師を集めているくらいだからレオナの存在も引き入れようという思惑なのか…しかし、彼女は組織の傀儡にはならないだろう。兄に会えるからと言って、反国組織に手を貸すような人間ではないのだ。
 ならば無理やりに連行しても無意味ではないのか。
 それよりも、行く手を阻んでいるファイと行動を共にする邪魔者と看做して、勧誘を断った魔術師たちと同じように殺害した方が理にかなっているとも思える。
 それとも、組織の中枢にいるらしい彼女の兄が一枚絡んでいるとでもいうのか。レオナが切ない恋心を抱いている、たった一人だという肉親。奴からは妹の存在を確認しているようだが、決して前には現れない組織の手足。
 そんな男が彼女になにをしたいと言うのだ。
 なぜだか沸々と怒りが湧いてきた。イライラする。
――気に食わない。
 突然、右に伸びる暗がりから気配を感じ、ガジェットと同時に身構えた。
 彼も警戒しているということは、新手の加勢ではないのか。
 ならば、
「あぁ、いたいた。探したよ」
「レオナさんもご一緒のようですが、魔力を感じませんでしたね」
 別れた時となにも変わらない、ヴァレリオとビビアーナだ。
 ――いや、ヴァレリオに着けさせていた魔道具のひとつがなくなっている。戦闘をしたということなのだろうが、まさかエフライムを制してきたのだろうか。
 ありえない。王子と後衛型の魔術師が戦闘専門の元専魔師に勝てるだなんてありえない。……だが、不可能を可能にするのがヴァレリオなのだ。
「おぉー、要注意人物がのこのこと出てきたなぁ」
 言葉の割に、ガジェットに気楽な空気はなかった。剣を構えたまま、僅かに足を引く。
「要注意されているのか。ふぅん、悪い気はしないね」
「ヴァレリオ殿下ですから、当然のことです」
 呑気な言葉を発した二人は、言葉の通り警戒や緊張感というものが見事に欠けている。
 この男があのガジェット・トリスだとは当然気付いているはずだ。ヴァレリオは直接会ったことはなくとも、奴の容姿や獲物についての情報は把握しているし、ビビアーナに関しては対峙したことがある。
 それなのにどうしてこうも、のこのこと馬鹿みたいに姿を表わすような奇行を…。
 目の前にガジェットがいなければ、頭を抱えているか、大声で咎めていただろう。
 ヴァレリオが優雅な手つきで髪を払う。
「さて、どうするつもりかな? 申し訳ないけどね、もう終わったよ」
「…っはははは! さすがだなぁ、聡明な王子よ。道理で連絡がつかなくなったわけだ!」
 やはり、エフライムを制してきたということか。
 不可能を可能にする力が、ヴァレリオにはある。頭脳も行動力も人格(これは外交として見せる顔、であるが)も度胸も、王の器として充分すぎる男だと、ファイは思う。
 もう少し大人しくしてもらいたいとも思うが、彼にそれを期待しても無駄だと散々思い知らされている。苦労させられ、迷惑を掛けられ、振り回され、その他思い出したくもないようなことばかりされてきた。
 彼がそう育ってしまったのは自分の影響がないとは言えないから、あまり責められないが。
 途端に笑みを消したガジェットが、敵意を放ってヴァレリオを睨むように見る。
「奴はどこにいる? 大人しく引き渡せば命は助けてやるぞ」
「随分と上から物を言うようだね。立場を弁えてくれないか」
 対して、ヴァレリオも高圧的な空気を纏い、微塵も怯む様子はない。
 いくら彼が剣技を学んでいるとはいえ、実戦的なものではない。ガジェットがその気になればいとも簡単に殺されてしまうくらいの差はあるのだが、その杞憂は感じていなかった。
 ガジェットには、敵意はあるが、殺意がない。
 ヘヴルシオンにとって王族はなによりも邪魔な存在だろうし、実際「要注意人物」と言っているのだが、動こうとはしないのだ。その理由と目的がわからない。
「まずこちらの条件を飲むことだな。レオナの動きを抑えているあれを外してもらおう」
「それが条件だと?」
「あれは私たちでは外せないのだろう?」
 小さく合図すると、ビビアーナが頷く。
「はい。私の力では不可能かと」
「だ、そうだ。今回ばかりは、お前を捕えに来たわけではないからな。見逃してやらなくもないさ」
「殿下! それはなりません!」
「黙れ。ファイ、私が主だよ」
 ヴァレリオがそこまで言っては、ファイに否定する権限はない。ここでガジェットを逃がすことが得策とは決して思えないが、彼がレオナを優先しようとしているのには、彼女自身のためだけでない理由があるのだろう。
 あの首輪は、ビビアーナでも外せないと言っていた。なんなのだろう。
 ガジェットの失笑が聞こえる。
「見逃してもらうまでもない。俺は自分の意志で、自分の力で逃げさせてもらう」
 ビビアーナの魔術が届くよりも、ファイの剣が届くよりも速く、ガジェットは低い笑い声だけを残して姿を消した。

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