朱の月

4話‐10‐

「やられた…!」
 蹲ったファイは、そのまま拳を地面に振りおろした。
 主人に目の前で完璧に出し抜かれたのだ。側近としてはあるまじき状況である。
「くそ…っ、分かってたんだよ! あぁー! ったく!!」
 立ち上がると、感情に任せるまま壁を殴って蹴る。
(あぁー…痛そう…手、痛そう……)
 なんてどうでもいいことを考えて自分が鈍痛を感じたように思ってしまうくらいには、レオナも現実逃避していたのかもしれない。
 最後に蹴りを放って息を荒くし、思う存分八つ当たりしたファイが未だ剣呑さが残る茶色の双眸をレオナに向けてきた。
 その勢いが壮絶なもので、彼が自分に対して怒りをぶつけることはないと思いながらも射竦められてしまう。
 その目を見返すことができず、それでも完全に逸らすこともできない。挙動不審に視線を彷徨わせてから、意を決して口を開く。
「あ、あの、ごめんなさい!」
「は?」
「私が、全く気付かずにビビアーナさんに妨害のきっかけっていうか、都合良く使われたっていうか、いやそうじゃないんだけど、とにかく! ファイが王子様止めるのを邪魔しちゃって…! ごめんなさい!!」
 自分のせいなのだ。なにも、気付いていなかった。
 ビビアーナに態勢を崩されなければ、ファイにぶつかることもなく、彼はヴァレリオの腕を掴めていたに違いない。そうすればこうして離れ離れにならなかっただろうし、少なくともファイとヴァレリオが別れてしまうことはなかった。
「何言ってんだ」
「え?」
 すぐに額を小突かれた。
「お前は自分を責めすぎ。完全に俺の過失だろ。そもそもビビアーナがだめなんだよ。家臣なら止めろっつんだ」
「怒って、ないの?」
「怒ってるだろ」
「いや、そうじゃなくて、私に」
「だから、お前は悪くない。避けられなかった俺も俺だろ」
 そうなのだろうか。どうしてもレオナが悪かったと思ってしまう。
 それに、ファイは避けることができたに違いない。一瞬の逡巡が目に浮かんだのを、レオナは確かに見たのだから。その逡巡のせいか、ぶつかることになってしまったのだ。
 しかしこれ以上の言及を遮るように、ファイはレオナに背を向けて歩みを再開した。だったらもう、レオナも気にしてばかりではいけないだろう。
「こうなったら仕方ない。エフライムはどうせヴァリーに接触してくるんだろうが、俺らも先に進むしかない。上手くいけば合流できるかもしれないしな」
「……あ、そういうこと!」
 ファイの言葉を咀嚼したレオナは、それが示すことに辿りついて手を打った。
 ヴァレリオは、エフライムがいくら戦闘専門の魔術師だからといってこの人数とメンバーでは分が悪いと判断し、姿を現さない可能性があると看破していたのだ。レオナたちが罠によって怪我を負わされたり憔悴するまで静観しているかもしれなく、それでは埒があかない。だからこそ、わざと二手に分かれて狙われやすい状況を作ってやったのだろう。
 彼は王子だ。ある程度の剣術は学んでいようとも、実戦経験はない。
 ならば得体の知れない魔術師のレオナと近衛兵士のファイの組よりも、ヴァレリオと専魔師でも後衛型のビビアーナの組を狙ってくるのは目に見えている。
 この屋敷――というべきか、洞窟というべきか――に入ってから、ビビアーナとヴァレリオがなにかこそこそと話していた様子はなかった。
 ならば、彼女は言葉を交わさずとも主の思惑を読んでいたのだろうか。幼馴染の側近よりも正確に。そうでなければ、レオナたちと合流する前にこの状況を読んでいたということになる。
 偵察の段階で内部に術がかけられていることが分かっても、まさかここまで大がかりなものとは想像もできないはずなのだが…、どこまで、先を読んでいるのだろう。
「ビビアーナがいれば最悪な事態にはならないとは思うが、ったくなんなんだよほんとに…!」
(あー……またカリカリしてる…)
 後半から完全に一人ごちているファイにはあまり触れないほうが自身のためだと思い、これ以上気に触れないよう乾いた笑みを浮かべて、はぐれない程度の距離をとった。



 二度と聞きたくなかった太い声が聞こえたのは、ヴァレリオと別れてからそう経たない時だった。
「おう、元気そうだなぁ、お二人さんよ」
 突然の声と気配。
 弾かれるように振り返ると、いつか見た、あの男がいた。相変わらずの大剣を背中に担ぎ、軽装すぎる格好で、ガジェット・トリスは余裕の笑みを浮かべていた。
 ファイが無表情に構える。
「な、なんでここにいるの!」
「ん? 嬢ちゃんだって知ってんだろ、俺がヘヴルシオンについてること」
「違くて! だって、この屋敷にはエフライム以外の気配はなかったはずよ!」
 目を丸くした後、ガジェットは豪快に笑った。
「忘れてんのか? ここは術で外と繋がれてる空間なんだぞ。俺はそっちにいたんだ」
 失念していた。そうだ、ここは屋敷の内部であってそうではない。
 屋敷の外からでは術内の様子はわからないし、掴めたとしても術がない状態の内部だけだ。だからガジェットは、始めからこの術で繋がれた洞窟内に待機していたのだ。
「んで? ヘヴルシオンについてる殺し屋がここになんの用だ」
 敵意を露わにしたファイが、鋭い声音で問う。
 ここにはヴァレリオもいるのだ。最悪レオナたちが命を落としても国にはなんの問題もないが、彼は違う。この国の第二王位継承者なのだから。
 ガジェットの狙いがヴァレリオならば、確実にここで仕留めなくてはならない。
「頼まれたんだよ、手ぇ貸してくれってな」
「エフライムにか?」
「奴以外に誰がいる。乗り気じゃなかったんだが、あんたたちがいるって聞いたからな。来てやったのさ」
 全然嬉しくない。
 もう二度と会いたくないと思っていたのだ。ガジェットは、アドルフを殺した男。レオナが救えなかった命を、思い出させる男。
 赤い血に濡れた、白い顔のアドルフの姿が浮かぶ。まだ、消えないし消せない。
「お前の狙いは俺たちということか」
「狙いってのとはちょい違うんだがな。俺はお前を評価してる。勧誘したいのよ」
「不可能だな」
 吐き捨てるような、微塵も迷いを見せないファイの様子に、存外ガジェットは嬉しそうに見えた。
 頭を掻いて、そのまま背中の大剣を握る。
「したら、実力行使ってことでいいかねぇ」
 途端に纏う空気を変えたガジェットに対して、どうしても恐怖を覚えてしまう。
 以前あれほど相手にならなかった男だ。絶対的な強さを持つ彼を、倒していくことができるのだろうか。
 ファイもすらりと剣を抜き、ガジェットに警戒を怠らないままレオナにだけ聞こえるよう言った。
「そう不安がるな。俺を信じろ。お前は下がってていい」
「え、だってファイ、」
「大丈夫だから」
 有無を言わさない彼は、一方的に話を打ち切って踏み込んだ。
 鋭い金属音。
 互いに一歩も譲らずに剣をぶつけあうその気迫に、そのままの位置にいることができなかった。一歩また一歩と後退し、壁に当たった。
 すごい。
 ファイよりも一回りも二回りも太い腕のガジェットが繰り出す重い剣を、ファイはなんなく受け流している。大きい身体と大きい獲物を扱う相手だからこそ、危険を承知で懐に深く入り込む。動きが速くて、レオナでは完全には追い切れない。
 アドルフのところで対峙した時とは、別人のようだった。
 自分だけ過去を引き摺り、怯えていてはなんの意味もないではない。もう誰にも死んでほしくないから、レオナだって強くなろうと決めていたのに。

「兄ちゃん、この短期間で腕上げたなぁ! ますます欲しい!」
「ほざけ!」
 引けは取っていない。が、まだファイには不利な点が多いように見えた。
 少しずつ、額に汗が浮かんできたのが目につく。剣を受けて、顔を一瞬だが歪めるようになった。経験の面で、ガジェットにはまだ及ばないのだ。
 さらにファイには背後にレオナがいる。
 彼は、レオナに被害が及ぶような真似は絶対にしない。
(どうしよう…! どうしよう!)
 広くない洞窟内では、レオナが得意としている風の魔術は使えない。まず二人が密着している状態では、レオナの使える攻撃性の魔術ではファイを巻き込む危険性が高い。
 精神系の術でも使えればよかったのだが、それは才能がないのでどうしようもない。
 捕縛しようにも、ガジェットはこちらへの注意も怠らないので、術をかけようとした瞬間にファイを盾にされるだろう。
 直接戦闘に参加しようにも、レオナでは邪魔にしかならないことは目に見えている。
 ファイに守られたいのではないのに。レオナだって、人を守りたい。
「――ファイ!!」
 その時、ガジェットの拳がファイの鳩尾に強く入った。
 呻き声を上げてファイの身体が飛ばされ、岩壁で打つ。そのまま崩れ落ちる彼の元へ駆け寄ろうとすると、強い目で制される。
 ひとつ咳をしてから、すぐにファイは立ち上がってガジェットへと走る。
(私…ほんと役立たずじゃん……)
 ファイを援護するどころか、支えることもできないなんて。
 こんな様子では、ヘヴルシオンを追って兄に会うことなんて不可能ではないのか。ヘヴルシオンを追うということは、これからも組織と接触を持つということだ。
 今ファイと一緒に行動をしている方が異例なのだ。本当なら彼は側におらず、レオナが一人で追っているはずなのだから。
 それなのに彼に頼りっぱなしの自分が情けない。
 ふと、ファイの言葉を思い出して両頬を打った。
(違う! だめだめ、責めすぎってファイにも言われたじゃない! 私は、私にできることを考えて!)
 今、レオナができること。些細でもいい、なにか援護になること。
 浮かんだ術をすぐに実行するため、詠唱を開始する。
 それを終えると、ファイが異変に気付いて一瞬こちらに視線を寄こした。なにも言わず、微笑む。それだけで伝わったらしく、彼も笑みを返してくれた。
 再び戦闘に集中したファイを見て、固く目を閉じた。
 レオナも集中しなくてはならない。術の効果を少しでも高めるために。
 ファイにかけたのは、なんのひねりもない、ただの防護だ。しかし物理攻撃に強いように少し構成を変え、さらに継続的にレオナが魔力を注いでいる。これがあればファイに傷を付けることは難しくなるし、多少ではあるが、身体も軽く感じるはずだ。
 同時に、感覚を研ぎ澄ませて魔力を感じる。ビビアーナなら、さっきまで一緒にいたのだから辿りやすいはずなのだ。なにか狂わされてはいるが、ファイが一人で戦ってくれているのだからそれくらい自分がしなくてはならない。
 無意識に、耳に着けたままの魔道具を強く握った。

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