朱の月

4話‐8‐

 レオナが予想していた通りの人物の登場に、民は一気に混乱した。
 外部との連絡がとれず、助けも呼べない。それならば自分たちで収拾をつかせるしかないと立ち上がった時のことなのだ。突然援護がきたと思ったら、それがまさかこの国の王子となれば、冷静でなどいられないだろう。
 収まりどころを見つけられないそれが爆発しようという時、ヴァレリオに従うように静かにしていたファイが、主をさりげなく庇うように一歩前に出た。
「信じられぬこともあるだろう。しかし、この方が瞳に宿す天の色は王家の証」
 初めて聞くようなファイの胸に響く声で、視線はヴァレリオに集まる。
「命を無駄にしたいと言うのならば止めはしないが、殿下はそれを望んではおられない。この国の民、一人ひとりが宝なのだ。民こそが国。国を守るのが、王族の方々なのだ。そのことを胸に留めて欲しい」
 怒りが、熱が、収まっていく。
 互いに顔を見合わせて、まとまらない思いが言葉にならず、消えていく。その行き場は、悠然と立っているヴァレリオに再び注がれる。
 初めに話してからはただ薄い笑みを浮かべているだけだというのに、彼を見ていると全てが解決したような、心配や不安なんてなにひとつないような、そう思わされるものがあった。



 落ち着きを取り戻した人々が慌てて用意した宿の部屋は、初めて見るほど豪華だった。王族に与える物にしてはそれでも手狭なのだろうが、一般的なそれと比べて3倍はあるように思える。寝具も見るからに質が違うし、床には絨毯が敷かれているし、専用の浴室まで用意されているのだ。
 好奇心にまかせて部屋の隅々まで見たり、ベッドに飛び込んだり、足を伸ばしてお湯に浸かりたいところなのだが、部屋に充満している凍りそうに冷え切った空気のせいで、レオナはなにも出来ずにいた。
 この空気でなくとも、王子の前となっては不可能であるのだが。
「では殿下。どういうことか、ご説明いただけますか」
 噂に聞く絶対零度の微笑みというのはこのことか。
 ビビアーナに淹れさせた紅茶を優雅に飲んでいるヴァレリオを前に、ファイの笑顔は恐怖を与えるだけだ。
 向けられている本人は全く意に介すことなく、にっこりと笑って足を組み直す。
「どういうと言われても、見ての通りだ。ディカルストに平穏を戻そうとして来ている」
「なぜ私に一言もおっしゃられないのですか」
「言えば止められるだろう?」
「よくおわかりでいらっしゃいますね」
 気まずい。気まずすぎる。ファイがこれまでにないほど怒っているのがひしひしと伝わってきて、自分に向けられているのではなくとも委縮してしまう。ヴァレリオが欠片ほども悪いと思っていないようだから、尚更である。さすが王族、肝が据わっている。
 見るからに育ちの良さそうな笑顔と仕草、穏やかな口調は、王宮を抜けだして無茶をしているような王子には思えない。
 ちらりとビビアーナの様子を窺ってみたら、平然と無表情で控えている。王宮ではこのやり取りが日常茶飯事ということで理解していいのだろうか。
「ビビアーナ、ここはもういい。物資の準備と調査を再開してくれ」
「かしこまりました」
 ビビアーナは一礼してヴァレリオの側を離れる。
 ヴァレリオは変装しようとも目立ってしまいそうな顔の造作と雰囲気だが、彼女ならば髪や瞳を変えてしまえばさほど目立たない。――というよりも、大分存在が薄い。
 地味…と言ってしまうのは失礼かもしれないのだが、潜入には向いているかもしれない。魔術師が治める街で魔力を遮蔽できるというのも、かなり有利に動ける。だからこそ一人で街中を動いていたのだろう。
 いそいそと準備していた彼女がヴァレリオとファイの脇を通り抜けようとした時、小さい声でファイに耳打ちした。
「グローリー様も、いい加減諦めたら楽になりますよ?」
 ファイが顔を顰めるのを見る間もなく、ビビアーナは部屋を去って行った。


 扉が閉まる音。
 すぐにファイは相好を崩して大きく溜息をついた。
「専魔師が諦めたらこいつが止まんないだろうが…」
「主人に無礼なこと言ってじゃねぇっつの」
 独白ともとれるファイの言葉に対して返ってきた声。その言葉の悪さに吃驚した。
 信じられない思いで声の主を見て、再び言葉を失った。
 先程からは想像もできないほどに様変わりしたヴァレリオは、上品さが全く見えない。いや、品はやはりあるのだが、王族にはどうしたって見えない、ただの青年のような表情と言葉だ。
 穏やかで優雅だった笑顔はどことなく意地の悪いそれに変わり、ファイに負けず劣らず態度が悪い。
 ふと水色の瞳がレオナを捕える。
「んで、なんだっけ、レオナ? レオナはファイの恋人なんだろ?」
「ち、違います!」
 咄嗟に声を上げて否定してしまった。
 みるみる楽しそうに顔を歪ませたヴァレリオは、ファイを見上げて続ける。
「だっせー、否定されてんじゃん! お前って大事なとこでへたれだもんな…」
「あのなぁ、俺らはそういう関係じゃない!」
「まったまたー! どう見たってレオナ、お前の好みだろ! なになに、どこまでいってんの?」
「え、」
 間髪いれずに、ヴァレリオに拳が落ちた。
「いい加減変なこと言うのはやめろ」
「うっわ、こいつ図星だとすぐ手上げるんだぜ? レオナ、狙われてるから気をつけろよ?」
 反応に困って、とりあえず苦笑いしておいた。
 曲者だ。ファイよりもひどい猫かぶりではないか。一瞬、素敵な人なんだなーと思ってしまったのが遥か昔のことのように感じる。
(――でも、楽しそう)
 ファイがレオナに対して気を遣っていないのとはまた違う気軽さがある。ヴァレリオも生き生きとしていて、まるで本当の兄弟みたいだ。実の兄とは仲が悪いらしいが、確かにこれをフランシスが見たら面白くないかもしれない。
「で、止めたはいいとして、これからどうするんだ? エフライムの手の内がわからないうちは、あまり動けないぞ」
 お茶を自分で淹れながら、ファイが溜息とともに問う。
 ヴァレリオが仕草だけでおかわりを要求する。ファイもなにも言わずに受け取り、淹れてやった。
「わかってるに決まってんだろ。ビビアーナがもう一回戻ってくれば、充分だ。………ファイ、お茶淹れんの下手だな…」
 お茶を一口飲んで絶望を見たかのような表情で言うヴァレリオに、ファイがすぐさま舌打ちをした。
「飲んでおいて文句言うな!」
「あの、わかってるっていうのは…」
「ん? だからわかってるぜ? なんであいつがこんな事態起こしてんのかとか、仲間がいそうかとか。結界の解除も次にはできるし、そうなれば不足してた物資も問題なくなる。あとは、追い詰めればいいだけだ」
 呆然としてしまった。
 この地に来たのはほぼ同時期のはずだが、そこまで把握して手を打っているとは思ってもみなかった。自身で足を運んでいることも異質ではあるが、それだけではなかったのか。ここまでの才があるなんて。
「俺も、軽くお前たちに説明したら出ていくからな。まぁ座れよ」
 ぽんぽんと椅子を叩く。
 とてもではないが、隣になど座れない。
 引き攣った笑顔で動こうとしないレオナを見て、不満そうに背を倒す。
「気にすんなよー、ファイの女には優しいぜ? 俺。年も近そうだし、仲良くしようぜー?」
「い、いやぁ…はは」
 一種の拷問だろうか。そんなことをすれば、首が飛ぶのではないか。
 そもそもファイの女ではないし、貴族でも専魔師でも女官ですらない平民なのだから、こんな王子様を間近で見ていることすら恐れ多いと思っているのだ。これ以上は求めないでもらいたい。切実に。
「ほっとけ。それより、知ってること言え」
「え、なにこれ、俺脅迫されてるみたいなんですけど。ファイって脅迫するの似合うな」
「そんなことはどうでもいい!」
 ヴァレリオは、怒鳴られているのに嬉しそうに笑った。



「エフライムは、ヘヴルシオンに寝返ったとみて間違いないだろうな。ファイが見た組織の女と似たやつを見たって民がいる」
 キーラのことだろう。彼女は目立つので、印象に残りやすい。
「どういう話になったのかは知らねぇが、何人か殺してる方法を見れば、組織に加入したとわかる」
「殺害方法?」
「レオナも見たんだろ? 血を抜いて殺してる、あれだ」
 クルグスの町で見た、あの殺し方か。
 キーラはマウロ夫婦にみせしめるため、わざわざ催眠にかけてから自傷させ、血を抜いていた。しかしエフライムはただ恐怖を植え付けるためと、組織のためにそれをしているだけだというのなら、民の目の前でむごいやり方を選んでいるだろう。
 前回もそうなのだが、なぜヘヴルシオンは血を抜くような殺害方法を取っているのだろう。
 心臓を止めるだけのほうが何倍も楽なのだが。
 どうやらその理由はヴァレリオにもわかっていないようだった。
「国民は宝だ。国民自体がこの国だ。んで、親父が信頼したエフライムの裏切りは許せるものじゃねぇ。これは俺自身が動かないと意味がねぇんだよ」
 強く堅い意志に、ファイはもう彼の取った行動を責めることはなかった。
 そしてビビアーナが今行っている調査のことや、避難指示、外部への連絡など、いくつか聞いた。
「ビビアーナが戻ってくれば、詰めて、エフライムをとっ捕まえにいくだけだ」
「逃げられるってことはないの?」
「ねぇな。結界の上塗りをして、魔力があるやつはディカルストから出られなくしてるとこだ。自分の張った強固な結界を弄ってやってんだから、あいつには解除はできないだろ」
(あ、私も逃げられないんだ…)
 逃げるつもりがあったのかと言われれば違うのだが、閉じ込められていると知ってしまうと逃げたくもなる。エフライムと直接的に戦うことになるのはレオナだろうし。
「今ビビアーナが調べてきて、仲間がいないようなら俺が戦う。お前は援護してくれるだけでいい」
「…あれ、私顔に出てた?」
 心を読まれたかのようなファイの言葉。バツが悪い気持ちで頬を掻くと、頭に手を置かれる。
「なんとなく考えそうなことは見当がつく。わかりやすいんだよ、お前」
 そうなんだろうか。
 感情が駄々漏れというのはあまり嬉しくなくて眉根を寄せたが、ファイの言葉は嬉しかった。戦うのは苦手だ。エフライムを許せないという気持ちは強いが、自信がない。
 すると、目の前でにやにやと笑っているヴァレリオが視界に入った。
「ふぅううーん、へえぇぇええー」
「…おい、なにか変なこと考えてないか」
「なーんにもぉー?」
「……ヴァリー、」
「もう認めろってぇー。よかったな!」
「ってめ…!」
「失礼いたします。ビビアーナ、只今戻りました」
「あぁありがとう。異常はなかったかな」
 ファイが拳を握った瞬間に扉が開き、ビビアーナが戻ってきた。
 ヴァレリオがずっと浮かべていたにやにやという笑みは瞬間的に爽やかさを感じさせる穏やかなものへと変わり、口調も先程までとはまるで違う。ファイを見ても、すっかり相好を正して厳しい表情をしているのだから、むしろ可笑しい。
 どうやらビビアーナは気付いていないようだ。淡々とヴァレリオに報告をしている。
「そうか、それなら充分だろう。御苦労さま」
「いえ。積もるお話は済まれましたか?」
「殿下に少し苦言させていただいた程度だ。積もる話などない」
「冷たいだろう? ファイはいつもしかめっ面しかしないからね」
 ビビアーナに隠れてファイがヴァレリオを睨みつけたのを見逃さなかった。
 ヴァレリオは笑顔を張り付けたままではあるが、きっと内心で舌でも出しているんじゃないだろうか。
「よし。まだ日も高いね。では、行こうか」
 立ち上がったヴァレリオの言葉に、ファイとビビアーナは頭を垂れた。

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