朱の月

1話‐3‐

 その日も、いつもと変わらないはずだった。
 同じ時間にミシェルの部屋を訪れ、起こし、物を投げられ、見送る。
 相変わらず姿を見せないファイに、相変わらず忙しそうなミシェル。そして、することもなくただ時間を潰しているだけの自分。
 こんな日がいつまで続くのだろうか。変わらない日々に焦り、どうしようもないのだと言い聞かせるたびにイライラが募る。
 机に突っ伏す。なにか楽しいことを考えようと瞳を閉じたが、なにも浮かんではこなかった。
「ちょっとー、生きてるー?」
 ふいに聞こえたミシェルの声に、首を反転させて姿を捉える。
「おかえりー。どうしたの? 今日早いじゃん」
「レオナ最近時間を持て余してたでしょう? ちょっと時間つくれたから、相手してあげようと思って」
 言葉を終えると同時に、ミシェルに抱きついた。
「ミシェルー!! もー…大好きー!!」
「ちょ、ちょっとレオナ、そんな可愛いこと言って…! いいのよ、お礼はキスを」
「王宮内とか、案内してくれるの?」
「隅々まで、とはいかないけど、楽しんでもらえそうなところを決めてあるのよ」
 ばちんとウインクをした彼女もとても楽しそうだった。






 レオナが連れて行かれたのは、上流貴族や専属魔術師のみが使用許可されている書庫や、ミシェルが普段仕事をしている部屋、丁寧に手入れされている庭園など、確かにレオナが興味のあるところばかりだった。
 どこもかしこも細部まで人の手が加えられていて、あまり華美でない割には装飾が凝っていたり、明らかに上質なものだけを選んで使っていることがわかった。下働きの時はまったく意識していなかったが、意識してしまえば傷つけてしまわないかと歩き方がぎこちなくなる。
 それにしても、実際に足を運んでみてわかったが王宮とは想像以上に制約が多い。
 侯爵以上の階級でなくては侵入不可だとか、許可が必要だとか、自由に回ることもできない。
「よくこんなとこで生活できるね」
「んー? まぁ慣れちゃえばなんてことないわよ。普段は忙しくて王宮内を回ることもなかなかないしね」
 そんなもんか、と納得した。
 専属魔術師だったレオナの両親に王宮の様子を聞くことは多かったが、なぜかいつも曖昧にごまかされていた。それが単に知らなかったからなのか、守秘義務なのかは知る由もないが。
「で、もしかして、案内してくれたってことはここは自由に」「歩き回れません」
 言葉を被せられ一瞬で期待を打ち砕かれたレオナは口をとがらせる。半ば想像はしていたことだが、やはり悔しい。
「自由にまわるには…そうね、グローリー様以上の権限がないと難しいでしょうね」
 紡がれた名前に、今度は違う意味で顔をしかめることになった。






 ミシェルに王宮内を案内してもらったのは非常に有意義だったのだが、それももう何日も前の話。結局1人ではどこにも行くことができず、これだったら下働きのほうがいくらかマシだったかもしれないとさえ思ってしまう日々が続いた。
 レオナはベッドにおもむろにダイブした。
 専属魔術師の彼女に与えられたベッドは最高級のもので、身体が沈み込んでいくのが気持ちいい。
 いつもお日様の匂いがするのはどうしてだろう。自分はなにもしていないし、ミシェルも干したりはしていないだろうに。
「人のベッドで死んでるみたいに寝っころがらないでよ」
 不満そうな、それでいてどこか優しいミシェルの声が降ってきた。
 布団に顔を突っ込んでいる時だけは心が安らぐのだ。死んでるみたいと言われようが、ゆずれないこともある。
 しかし、時計を見ていないがおそらくまだ昼をすぎたくらいのはずだ。こんな時間に戻ってきたのは初めてだ。また案内でもしてもらえるのだろうか。
「なにー、ミシェルさぼり?」
「私が切り上げさせたんだ。貴婦人の部屋に勝手に入れないからな」
 がばっと身体を起こした。
 数日前に聞いたきりの、ぶっきらぼうで高圧的な声。
「お前はガキか」
 予想通り、ファイの姿がそこにあり、顔に血が上る。
 大の字で突っ伏していたことなど当然見られていたのだろう。この男は好きではないが、あのだらしない姿を見られたと思うとさすがに恥ずかしい。
「…失礼しました。私に御用で?」
「あぁ。ヘヴルシオンのことだ」
 レオナと目も合わさずに近くの椅子に腰かける。次の言葉を待っていたが、ファイはそのまま口を開こうとはしない。
「お、お茶でもいれますわ」
 気まずい空気から逃げるように、ミシェルはいそいそと部屋の奥へ入って行った。
 恨みがましい視線を彼女に送ったが、もう遅い。2人になった空間で、ファイはやっと目を上げた。
「情報を伝える前に、約束だ。お前のことを話してもらおう」
 鋭い、レオナのことを全く信用していない瞳。
 ミシェルの存在があるから表立って疑いはしないが、単身王宮に乗り込んできた謎の女を、そう簡単に信じるわけもないか。
 ここで自分が本当のことを言わずに適当にそれらしいことを並べても、この男は嘘だとすぐに見抜くだろう。





 瞳を閉じる。
 暗闇の中に浮かぶのは、妖艶な赤い月。少し冷たく心地いい風。そこに溶けていってしまいそうな優しい声。
 その声が告げた別れの言葉。薄れる意識の中で感じた、身体を包み込んだ温もりと匂い。
 そして、目覚めて痛感した、彼がいなくなってしまったという虚無感。
 最初に思い出すのは必ず別れの瞬間だった。
 そのことが逆に、兄を探し出してみせるという決意を固いものにしていった。毎日彼のことを思いながら、気が付けば8年が過ぎた。
 ゆっくりと目を開け、目の前に座るファイを半ばにらむように見つめる。
「私には、8年前から行方不明になっている兄がいます。彼が行方不明になる前日、私に謎の言葉を残していきました。―― それが、“ヘヴルシオン”。 私は兄を捜しています。彼に会うためなら、なんだってする」
 両親がすでに他界してしまったレオナにとって、兄はたったひとりの家族だ。
 その兄が残していった謎の言葉を求め、ここまで来た。
 口を閉じるとミシェルが紅茶を持ってきた。ファイが受け取り、一口含んでテーブルに置いた。
「ヘヴルシオンは、近年動きが活発になってきた反国組織のことだ。お前も、国内で事件が多く起こっているのを聞いたことはあるだろう」
「はい。でも、犯人は捕まっていないから謎のままだって…」
「国民に反国組織が暴動を起こしている、なんて伝えると思うか? なんとなくの形は掴んでいるさ」
 反国組織、そんなものがあったなんて、驚いた。
 ファーレンハイトは豊かで平和で、移住を求める者だって多いのに。
 さらに、その反国組織に兄が関わっている?
 いつも優しくて温かくて、穏やかだった彼が?
「さらに言うなら、私はお前を疑っている。ヘヴルシオンの一員である兄を持ち、王宮内部まで潜り込め、そして…見事な銀髪と紫銀の瞳だな」
 意地が悪い男だ。にやりと笑う口元が憎らしい。
 魔伎には、あまり知られてはいないが外見的特徴があった。
 灰色の髪と紫の瞳。
 それぞれの色を持つ人間は国内に少なからず存在するが、両方を持つのは魔伎のみ。また、色素が薄いほど魔伎の血が濃く、魔力も強いということ。
 魔伎以外でこのことを知っている人間は少ないのだが、この男は知っていたのだ。
(初めて会ったとき驚いた反応したのは、私が血の濃い魔伎ってわかったからか)
 血の濃い魔伎とわかっていながら敵か味方かわからない者と対面できるとは、相当腕に自信があるのだろう。
「お気付きの通り、私は魔伎です。それでも、ヘヴルシオンと私は無関係だと言い切れます。もし不安ならミシェルに尋ねてみて下さい。彼女の術なら真偽もわかるでしょう」
 真っ直ぐに瞳を見据える。自分の言葉に偽りはない。
 ただ、兄に会いたい。
「――明日の朝8時、西門に旅装をして来い」
「…はい? え、ちょ、」
 ファイは急に立ち上がり、一方的に言葉を残して部屋を出て行った。
 たったあれだけの言葉で信じてもらえるはずがない。ミシェルの力を使いながら、いくつか尋問のような質問をされるものだと思っていたのだが。
 腑に落ちない気分で座ったままでいると、背後で気配がした。そこには気まずそうにもじもじしているミシェル。
「もしかして、…ずっと?」
 言葉が自然と鋭くなる。嫌な予感だ。
「えと、あの、私だって好きでやった訳じゃなくて、ね?」
 彼女とは付き合いが長い。なにがレオナの琴線に触れるか、よく知っている。
「つまり、あの男ははじめからミシェルに確認してたってことね?」
 肯定しないが、否定もしない――肯定ということか。
 視界の中で彼女がなにか言っているようだったが、なにも耳には届かなかった。





 ――ほんと、あの男大っ嫌い。
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