朱の月

1話‐2‐

 レオナの朝は早い。
 早朝に専属魔術師の会議があるため、それに間に合うようにミシェルを整えなければならないからだ。
 さらにミシェルは寝起きが悪く、すぐに覚醒しないだけならまだしも、近くにあるものを投げつけてくるのだからたまったもんじゃない。
 それを思い出し、憂鬱な気分で目の前の扉に向き合う。
「おはようございます、レオナです。失礼しますよー」
 形だけのノック、形だけのあいさつをし、足早に室内へと進む。
 中央に位置している大きなベッドでは、気持ちよさそうな微笑みを浮かべてミシェルが眠っていた。食べ物の夢を見ているのか口元にはよだれがたれていたが、決して下品には見えない。
「うらやましいですこと」
 幸せそうな彼女を見て、軽く肩を落とす。
 いったい自分は何をしているんだか。
「はいはーい! ミシェル! 起きな…さいっ!!」
 大声と共に、彼女を覆っていたふかふかの布団を思いっきりはがす。この程度では起きるはずもなく、続けざまに枕を引き抜き、手にしたままのそれで何度も叩く。
「…ん……もう、なによ…」
 不機嫌そうな声が聞こえると、もうすぐ、
「まだ寝たいって言ってるでしょうが!!」
 ベッド脇のクッション、水差し、服、本、その他さまざまなものが次々にレオナを襲ってくる。
 落としても構わないものは避けながら、陶器やガラス製品などは確実に受け止める(初日に必死で避けてしまったら、ファイに破損代を請求された)。
 一通り手近なものを投げ終えると、今度はなにやら小声でつぶやき始めた。
 まずい。今日はかなり寝起きが悪いようだ。
 ミシェルは攻撃系の魔術は使えないが、幻術は得意である。
 術をかけられてしまったら終わりだ。二度寝されて、会議に遅刻して、自分が怒られる羽目になる。
 詠唱が終わる前に駆け寄り、口をふさいだ。
「…それはやめてくれるかな…」
 ついでに鼻もつまんでみた。
 眠そうに目を開いて閉じてしていたが、何度目かでぱっちりと見開いた。
 腕の中で暴れられたので、素直に放してやる。
「――っ! こ、殺す気…!?」
「おはようミシェル。今日はいい天気だよ」
 涙目で肩を上下させている彼女に清々しい笑顔を向けた。謝るつもりはさらさらない。
「はいはい、おはよう。私、いつか死ぬんじゃないかと思うわ」
「それは私のセリフよ」
 水を渡してやる。のどを反らして飲み干すと、やっと意識がはっきりしてきたらしい。
「まぁ…そうね、レオナの腕の中で死ぬのなら、私の人生も捨てたものじゃないわね」
「ミシェル? 朝から物騒なこと言わないでくれるかな。あと、近い」
 いつの間にやらレオナのわきに立ち、身体を包み込まれていた。顎を指で上げられ、間近に化粧もしていないミシェルの顔があるが、それでもやはり美しいと思ってしまう。
 残念そうに笑いレオナを放すと、だるそうではあるがしっかりとした足並みでクローゼットに向かった。
 ここまでくればレオナの仕事は終わりである。
 ファイにミシェルの侍女をしていろと言われたものの、彼女は基本的に身の回りのことは自分でやる性格だ。会議についていくことはできないし、そもそも不要に歩き回ることは許されていない。
 様々な色のある専属魔術師の衣装の中から淡い緑のものを選んだ彼女は、装飾品も服に合うものを選び、鏡に向かっている。
 目が覚めてさえしまえば行動は早く、無駄が一切ない。なるほど、史上最年少で専属魔術師の長を努めているだけある。
 実力だけでなく容姿も、さらには強靭な精神さえも伴っているのだから、王宮でもかなりの立場にいるのだろうと、ぼんやり思った。
「じゃ、いってくるわね。明日こそ一緒に朝食を食べましょ」
「一発で起きてくれたらね。いってらっしゃーい」
 いつの間にか化粧も済ませていたミシェルを見送ると、部屋には静寂が訪れた。


「レオナ・フィンディーネ、お前の王宮での生活を許可する」
 あの日、ファイは思いもよらなかったことを言った。言葉を何度か脳内再生し、やっと理解できたくらいだ。
「え、い、いいんですか?」
「許可すると言っただろ」
 ミシェルと顔を見合わせると無言で何度か頷かれ、喜びが自然と浮かんでくる。
 礼を言おうと振り返ると、彼はまだ厳しい表情をしていた。
 だが、と言葉が続けられる。
「もちろんただでとは言わない。体裁もあるからな、王宮にいる間はミシェルの侍女として過ごしてもらおう。ひとりで王宮内をうろつくことは認めない。まぁはっきり言ってしまえば、お前はミシェルの監視下でのみ行動が許されるということだ。また、私に隠し事をすることは許さない。時がきたらお前に話してもらうことは山ほどある。この条件を飲むのなら、こちらも隠し事はしないと約束しよう」
 隠し事はしない、か。
 国が上層部だけにしか与えていない情報を、簡単に一国民になんでも話すとは思えないが。
 信用などはこれっぽっちもされていないのだろうが、それでもやっと見つけた手掛かりをそう簡単には放さない。
「わかりました。条件を飲みます」
「では私から上には伝えておこう。――あぁ、その貧相な服の代わりに専属魔術師の侍女服も用意してやらないとな」
 鼻で笑われ、こめかみが痙攣するのがわかった。
(なにが貧相よ。そう思うなら下働きの服くらいなんともないんだろうから変更しなさいよ)
 心の中で吐くが、表情にはでていないはずだ。愛想笑いはミシェルゆずりの一級品だと自負している。
「くれぐれも、下手に動くなよ」
 言うなり背を向けて去って行った彼の姿を見送ると脱力した。
「とりあえず、罰もなくてよかったわね」
 肩を叩かれ、振り返る。
「そうね…でも私、あいつ嫌い」
 彼が現れたとき、ミシェルがなぜあそこまで顔をしかめたのか。
 その答えはたった数分だけで十分理解できた。


 ここ数日でわかったことだが、ミシェルは一度部屋を出ていくと早くとも夕方までは戻ってこない。
 彼女は専属魔術師の中でも特異な系統を修得しているため、引っ張りだこのようだ。
 ミシェルが不在の間は部屋にいるようにも言われているので、長時間ひとりで過ごさなければならなかった。幸いにも部屋には魔導書やら史書、小説など様々な本が揃っており、時間をつぶすのは簡単ではある。
 しかし没頭するあまりにほとんどの本を読んでしまったし、さすがに飽きた。
 時が来ればこちらから部屋に行くと言っていたファイは、いまだに一度も姿を見せていない。
 ひまを持て余し、なにもせずに過ごす日々。さすがに不満が募ってくる。
 そもそも、本当に情報を流すつもりなどあるのだろうか。扱いにくいミシェルのお守りを押し付けられ、監視されているだけではないのか。
「…兄さん…」
 かすれた声が部屋に広がりすぐに消える。
 息を吐き、両頬を叩いた。
 ひとりでただただ過ごしていると、どうしても暗い気持ちになってしまう。手掛かりを見つけたからこそ、余計に焦る。
 それでも、この8年全く前進できなかったのに、やっと知っている者に出会えたということが支えだった。
 少しずつ、近づいている。
 それならば今は自分にできる最善を。
(とりあえず…身体でも鍛えようかな)
 はやる気持ちを抑え、ひとまず運動不足を防ごうと腕をまくった。
「…なにやってんの?」
「あ、おかえりー。見ての通り、筋トレ」
 扉の開く音のあとに聞こえた怪訝そうな声に、にこやかに返答した。
 苦笑して近づいてきたミシェルは、少し疲れているのか足取りが重い。
「――、」
「もーやだぁ! なに筋トレって、なに筋トレって! 可愛すぎるんだけど!」
 大丈夫か、そう問おうとした言葉は、ミシェルの胸に押し付けられて消えていった。
 なにが嬉しいのか、きつく抱きしめられ、そのうえ頭を撫でて額にキスも落とされた。
「ほんと可愛いわねー…もう、食べちゃいたい…」
「私は食べられたくない。はい、離れてー」
「出会った頃は怯えたうさぎみたいで可愛かったのにー。でも冷たいとこも好きよ?」
「そりゃ…あの時は、急にひとりになっちゃって不安だったんだもん」
 ミシェルに出会ったのはもう14年も昔のことだ。
 そのときの自分はまだ幼く、“ひとり”ということに耐えられなかった。
 この世界には自分ひとりだと、生きていく希望がないと思っていた。それでも死ぬ勇気はなく、死んだように生きている毎日だった。
 そんなとき、ミシェルに出会った。
 彼女はレオナに生きる希望を与え、ずっと一緒にいてくれた。可愛がり方は異常で若干引いてもいるが、レオナにとっては家族のように大切で、尊敬もしている。
 それでも――
「私はミシェルみたいな趣味はないのー!」
「あら、私だって女の子ならだれでもいいわけじゃないのよ?」
「はいはい、光栄ですよ。明日はいつもより早いんでしょ? お風呂入っちゃって」
 少し怒ったように頬を膨らませて唇を尖らせたミシェルを、浴室のほうへ向かせる。
「レオナ…本当にジェイクを…やつらを追うの?」
 他人から聞く兄の名に胸が跳ねた。一度呼吸を置いて、正面から向き合う。
「もちろん。私はそのために来たの。それだけのために来たの」
「…私は、本当のことを言うとやめてほしいわ。レオナの気持ちもわかってる。でも、」
「心配してくれてありがとう。悪いけどそれは呑めない」
 強い口調ではっきりと言い切ると、それ以上言葉を続けてはこなかった。大人しく浴室に姿を消したのを見届け、自室へ戻ろうと一息つく。
 カラカラと音がして目を向けると、ミシェルが顔だけをのぞかせていた。
「ねぇ…レオナ…? 今日こそ一緒に」「入りません」

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