朱の月

3話‐12‐

 セラルト領で会った魔術師、イワンの言葉を思い出した。

――急に、本当に突然魔力を感じなくなって、なにをしても術が使えなくなったんです…

 魔力を感じないなんて正直信じられることではない。
 レオナが彼に会った時には魔力を読みとれたし、彼だって術が使えていた。だからきっと、術を使えなくなったのは彼の精神的な状況のためで、身体的な問題はなかったのだろうと。
 しかし今、その言葉を本心から信じることができた。
 それも、最悪な形で。




 気持ち悪いと思った。これが本当に自分の身体だとは思えなかった。
 意識もしっかりしているし、身体も指の先まで動かせる。それでも違和感は拭えなかった。
 それもそのはずで、これまで19年間、毎日どんな時でも感じていた自分の魔力が、初めからなかったかのように消えているからだ。
 魔力が尽きたのではない。その場合はだんだんと魔力が減っていくのを自覚できるし、尽きたとしても微弱に感じられ、全身を激しい疲労感が襲う。さらに、レオナは例え尽きようとも命を代えて戦う意志があった。
 今は違う。一瞬で感じなくなってしまった魔力は、意識的に呼び起こそうとしても片鱗すら見えない。
 対面しているキーラの魔力を感じることもできない。
 その違和感が、不快感が、虚無感が、レオナに底知れぬ恐怖を与えていた。



 口を閉ざしたまま硬直したレオナの様子に、キーラは動きを止め、意外にも苛立っているようだった。
「ったく、邪魔すんなって言ったのに、あのガキ…」
 盛大な舌打ちとともに、なにやら毒づいている。
 親指の爪をかじりながらぶつぶつと考え込むキーラとは別に、レオナも思考を巡らせていた。
 こうなってしまった原因は、今は二の次だ。魔術を使えない状態で勝てる相手ではない。魔術を使っていても、ろくに攻撃できなかったのだ。守りに徹するにも術が使えなくては意味がないし、そうなると逃げるしか思い浮かばない。
 ただ、逃げ切れるだろうか。気まぐれではあるが情け容赦ない彼女から、術も使わずに。
 成功するとは思えない――が、やらなければただ殺されるのを待つだけになってしまうだろう。
 意思を固めたレオナは、キーラの意識が己に向く前に踵を返した。本来は彼女から目を離したくないが、正面突破は不可能。左右に逃げるにも、よそ見をしていたのではダメだ。瞬時に、できるだけ彼女から離れなければ。
 レオナが逃走を決めたことに、当然ながらキーラはすぐに気づいた。彼女を追うか、ひとまずこの状況を作り出した仲間と呼ぶべき人間を排除しに行くか少しの間逡巡し、目先のことを優先することにした。
「逃がさないよーん」
 魔力を空気中に巡らせ、水分を集め、増幅させる。それをレオナの前に、形を成すように放った。
 水の網になったそれは、逃げられない速さと範囲でレオナの前に現出した。
 とっさに結界を張ろうとし、術を使えなかったことを思い出す。不自由さと迂闊さに舌打ちしたくなるが、それは叶わなかった。
 なす術もなく網に捕えられる。
「うあぁあ!!」
 触れた箇所に焼けつくような痛みを感じた。
 きつく締められたわけではない。網を身体からなるべく離しながら見ると、直接肌に触れた部分だけが火傷したかのように赤く腫れている。
 縄の網とはまったく違うそれ。
 魔術であるからにはなにか効果があると思ってはいたが、まさか高温になっているとは思わなかった。
 そういえば、熱の術も使っていたことを思い出す。それなら併せて使うことなど容易いだろう。
「…やっぱつまんない! せっかくの魔術師相手なのに一方的にいたぶるのとかって、あたしの趣味じゃないんだけどー! もっとギリギリのところで命がけの戦いがしたいのぉー!」
 駄々をこねるように口を尖らせ、腕を振り回す。
 意図的なのかはわからないが術が消えたことは助かったが、レオナに文句を言われてもどうしようもない。こちらは命をかけたくはないし、魔術が使えなくなったのだってレオナの問題ではないと思う。
 キーラの様子では、彼女が直接レオナになにかをしたわけではないようだ。
 しかしレオナの魔力が失われたことに疑問を感じていないところから見るに、彼女の仲間がなにかしたのだろう。
 キーラが今まで通り術を使っていることから、一定の空間に対して魔術の使用を制限したのではない。
 魔術の知識は、自分の系統関係なくすべて頭に叩き込んだ。いわゆる禁忌という術も、構成は詳しく知りえなかったものの、対価や術自体についてなら知らないものはないはずなのだ。
 こんな、魔伎の力を封じてしまうものなんて存在しなかった。
 イワンの話を聞いた時から頭の片隅に浮かんで消えた可能性が、再び浮上してきた。
 魔伎の力を封じる意味や必要なんてないとその考えはすぐ消していたが、自身がこうしてヘヴルシオンであるキーラと対峙して抑え込まれていることで、その重要性が身に染みてわかった。
 ヘヴルシオンに行くと言って兄が消えたのは8年前。
 そのヘヴルシオンが活発に動き出したのはここ1年ほどらしい。その間水面下でなにをしていたかと言えば、これなのだろう。
 敵対する中でも脅威になりかねる魔術師の力を封じるための、術の開発。
 組織でどの程度の人間が使えるのかはわからないし、効果のほどもわからない。ただ、術をかけてしまえば完全に無力化できてしまうことだけが理解できた。
 発動条件があるのならばそれを回避すればいいのだろうが、相手は術の発動をまったく悟られずにレオナの魔力を封じることに成功している。
 せめて、効果がどの程度持続するかは把握したい。
「…あなたがやったんじゃないんですか」
 レオナの言葉に、キーラは目を丸くした。
 内容にではなくレオナから話しかけたのが珍しい、という理由であろう。楽しさを隠しきれない、少し締まりが緩くなった口元を隠そうとしながら答える。
「違うってー。あたしこんなひねくれた術使えない…ってか使いたくないし」
「でも、あなたの仲間なんでしょう?」
「仲間ねぇ…そうなんだけど、あたしはそう思ってないって言うか、いやよあんな性悪」
 キーラが顔を顰めながら言った言葉は、ふらふらとしていて理解できなかった。
 仲間ではあるが、仲は悪いということであっているのだろうか。
 性悪と吐き捨ててはいるものの、彼女も負けじといい性格をしていると間髪置かずに思ったが、それは胸の中だけに留めた。
「魔術師全員が使えるってわけではないのね?」
「使えるわけないじゃん。これって結構手間…え? なによ。……はいはい、スミマセンデシター」
 突然独り言のように呟きはじめた彼女は、おそらく仲間と通信でもしているのだろう。
 例の術者かは不明だが、不満げに乗せた謝罪の言葉はこれ以上ないほど棒読みだ。
 よそ見しながら話していたキーラが、ふとレオナに鋭い視線を投げかけた。
「あぁ、なるほど?」
 紅い唇が歪んだ、そう意識した瞬間、キーラの周りが霞んだように見えた。
 過程が感じられないうちに、彼女の頭上にはいくつもの水の矢が出来上がって浮かぶ。
「時間稼ぎは、ちょーっとずるいんじゃない?」
 そう言った彼女は、なんの躊躇いもなく矢を放った。
 直線的に向かってくる矢に追跡の効果はないようだ。しかしその数は多い。
 レオナはぎりぎりまで引きつけてから、致命傷となりそうな矢は確実に避け、いくつかは甘んじて受けた。
 身体中に与えられる激痛に、今度は唇を噛み締めて耐えた。次に襲い来る攻撃に備え、意識は明瞭に保っておかなければならない。
 そう身構えたレオナはしかし、全身の毛が粟立つような魔力を感じた気がした。
 魔力を封じられていて実際にはわからないのだが、通常であれば恐怖するほどの禍々しい魔力。レオナが昨晩感じた魔力と同じそれなのだが、今の彼女にはわからない。
 ただなにか悪い予感だけがしていた。
 キーラの口元が微かに動く。彼女ほどの魔術師が詠唱を必要とする術に1つだけ心当たりがあった。
 それに思い当たって まさか、と血が引いたと同時に、軽い眩暈が襲う。貧血と同じような感覚。視線を落として自身の身体を見やる。

 目に飛び込んできたのは、予想通りのものだった。
 身体にできた複数の傷口から、赤い糸のように血が吸い出されている。ただ、アンヘラが術をかけられていた時に見たものよりはるかに細い。
 それでも術が確かに効いているというのは変わらない。極少量ずつではあるが確実に吸い出される赤い液体をどうにか止めなければ、待ち受けているのは死だけだ。
 焦りのあまり狂いそうな思考を、“回避する方法を考えろ”という一点のみに集中させて固める。
 ――しかし、答えが浮かぶことはなかった。
 魔術が使えないレオナに傷を防ぐことはできず、術の妨害に捨て身でぶつかることも、成功の可能性が微塵もないことから実行する気にはなれなかった。
 次第に酷くなる頭痛と眩暈。手足が凍えるように冷たくなっている。
 成す術もなく立ち尽くすレオナは、半ば死を覚悟していた。
 圧倒的に差のある相手。彼女は決してそうではなく互角だと言ってはいたが、結局レオナに意味を理解することはできなかった。
 ここで死ぬ自分を、ジェイクは見ているのだろうか。近くにはいるはずなのに助けに来ないのは、やはり彼にとってレオナがどうでもいい存在だったからなのか。
 孤独を味わい、絶望の淵を彷徨い、様々な人間に迷惑をかけながらも助けられてきた自分。誰かから、ちゃんと愛してもらっていただろうか。誰かを本気で愛すことができただろうか。
 なにもない。自分には、なにも。
 …ミイラのような姿で最期を迎えるのは少し嫌だなぁ。
 広場で倒れていたコジュの最期を思い出して、微苦笑する。
 あの彼は、今自分を殺そうとしている女の造った幻なのに。重くなった瞼を開いて彼女を見ると、憐れみすら映らない凍った瞳で、妖艶な笑みを浮かべていた。



 ふっと意識が薄れ身体を支えられなくなると、重心が傾いた。
 倒れるな と闇の中で思い、与えられる衝撃を待ったが、冷たく堅い地面を感じることはなかった。優しく温かくレオナを包んだものから、以前も感じたことのある匂いがした。
「悪いが、まだこいつを死なせるわけにはいかないんでな」
 上から降ってくる馴染みのある声。身体を巡っていた違和感が消え、心なしか温かくなったようにも感じる。
 感覚が鈍くなった全身でも感じられる温かい存在に安堵しながらも、それが望んでいた人物のものではなかったことで、レオナは胸にぽっかりと穴が開いてしまったような喪失感を再び味わっていた。

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