朱の月

3話‐13‐

 黒と赤だけの世界。闇の中にあるというのにその赤は僅かにも色を失われず、己を主張しているように、闇に飲み込まれることも、溶け込むこともない。
 音もなく、動くものもない。広くはない空間を見渡し、再びその赤へと視線が戻る。
 どれほどの時間が過ぎただろうか。
 眠気も、空腹も、疲労も、なにも感じない。自分を満たしているのは喪失感だけだ。
 涙も枯れた。声も、感情すらも。あとは命が枯れるのを待つだけだと、からっぽの心で感じていた。
 諦めというほどのことでもない。
 それが当然に起こり得ることであり、己が存在していく意味もないのだから。いつその時が来るのかと、なにもせずにひたすら待つ。
 ふと目の前が白くなり、あぁついに来たのだと、抵抗するつもりもなく瞳を閉じる。
 ただひとつだけ、この場にない彼のことが気にかかった。だからといってどうすることもない。もうここで自分はなくなるのだから。
 でも、もし、彼がいるのならば。
 なにも感じず、なにも考えない時間の中で、それでも消えなかった彼の名に、もしかしたら縋っていたのかもしれない。希望を感じようとしていたのかもしれない。
 述懐した言葉はしかし、音となることも誰かに気付かれることもなかった。





 始めに視界に入ったのは、年期を感じさせる板の天井だった。
(あれ…死後の世界って……想像よりなんか、庶民的…?)
 見渡す余裕すらなく、すぐに霞んでいく景色。
 なすがままに意識を手放す。
「起きたか」
 なんの感情も窺えないぶっきらぼうな声。反射的に身構えた身体にはしかし、なにも降ってはこなかった。
 その声に引き戻されるようにして、閉ざされていた瞼を押し上げる。
 真っ白だった世界はだんだんと色を付け始め、幾重にも見えてぼやけていた輪郭をひとつにさせる。
 すっきりとした視界に明確に映ったものをなにかと認識して、瞬間上げそうになった声をレオナはなんとか飲み込んだ。
「ん、起きたな」
 目をしっかりと開けたレオナを認め、至近距離から様子を窺っていたファイはやっと顔を離す。
 覚醒はしたものの、驚きのあまり急に大きく開いてしまった目が痛い。頭痛まで引き起こしてしまい、目元を抑えようとして身体が動かないことに気付いた。
「ファイ?」
「なんだ」
 彼の名を呼ぶ声も、掠れて弱々しい。口を開くことすら難しい己の状態に愕然としてしまった。
 レオナが心身ともに固まっていると、ファイは脇から水差しを取り、少量をついでそのままレオナの口元に運ぶ。なにも言わない彼を訝しんだが、与えられるまま口を付けた。
 口内が少し温くなった水で潤わされる。水が喉を通り過ぎていくのが気持ちいい。生きてるんだなと、理解した。
 ベッドの脇に腰を下ろしているファイに向き、話そうと試みる。
「な…で…? …わた、し……」
「あぁー喋るな喋るな。あとで説明してやるから。…とりあえず、寝ろ」
 どこか投げやりに手を払うと、横を向いていた顔を両手で挟まれて直される。
 キーラに今にも殺されそうだったレオナを、どうやって彼は救ってくれたというのだろう。魔術師でない彼が術を防ぐ術などないのだが。
 アンヘラは息を取りとめているはずだが、ちゃんと無事でいるだろうか。ひとり宿に残されていたユーリには会えたのか。
 キーラはどうなったのだろう。そして、兄は。
 言葉にして聞くことができないからなのか、今の自分の状態もわからないまま疑問が渦を巻く。
 一向に眠ろうとしないレオナに、ファイは息をひとつ落とした。額に手を当てると、そのまま視界を塞がれる。
「いいからなにも考えるな。いいから、寝てろ」
 目を覆う温かい手。優しい彼の声にはどこか懇願するような意思が込められているように感じた。
 彼の意に沿うよう、あちこちに飛び散っている思考を閉じて瞳を閉じた。



 次にレオナが目覚めたのは、部屋が闇に包まれた深夜に差し掛かろうとする時間だった。
 目映かった室内が一変している様子に多少驚きつつ、動かせないとまではいかないが労力のいりそうな体は諦め、視線だけを動かす。
「水でも飲むか?」
 声の主を捉えるのと言葉を投げかけられたのは同時だった。昼とまったく同じ姿で、同じ位置で、少し変わったのは手に本を持っているというだけのファイがいた。
 それが思いもよらない光景で、つい呆然と口を開けたまま硬直してしまう。
 答えが返ってくるとは元より思っていなかったのだろう。彼はすぐに本を寝台の脇に伏せ、先程と同じように水差しを取った。
 その流れに既視感を覚えた。硬直してしまった理由は異なるが、彼に世話されているのは変わらない。
 なんとも言えない気まずさから抜け出そうと、レオナは身体に力を込めた。
「だいじょ、ぶ。…起きる」
「やめとけ」
 即座の切り返しをレオナは無視した。
 しかし、瞬間全身に走った激痛のせいで、声を噛み殺しながら諦めざるを得なかった。
「だからやめとけって言っただろ。お前、ひどい怪我してんの忘れたのか」
 言外に馬鹿かと言っているファイは、口調に反して優しい声音と手つきでレオナを支えた。半ば抱かれるようにして水を飲まされる自分の状況に、顔が熱くなるのがわかる。
 いつもならば真っ先にからかわれるであろう反応は、空気を読んでくれたのか深追いされることはなかった。
 何度か口に運ばれた後、目で不要を訴える。
 レオナの身体を支えるものが、彼の腕からベッドの背へと変わる。落ち着かせるようにひとつ息をついた。
「ユーリは…?」
「隣の部屋で寝てる。少し前までは起きてたんだが、さすがに寝させた」
 少年の無事がわかり安堵した。同時に心配させてしまったことに胸が痛む。
「アンヘラさんは、」
「なんとか生きてる。衰弱はしてるが命に別状はない。すぐ動けるようになりそうだ」
 脳裏に血を抜かれた彼女の姿が浮かぶ。レオナが焼いた胸も。
 動けるようになったら謝罪せねばならないだろう。仕方がなかったとはいえ、女性なのにおそらく一生残る傷を付けてしまった。
 さらに、目の前で彼女の夫であるマウロを死なせてしまった。レオナが手をかけたのではないが、救えなかったのは事実だ。術を使ったのが、血を分けた兄であることも。
 なぜ彼が死んで、自分は生きているのだろう。ヘヴルシオンを追っていて、目論見を邪魔しようとする自分こそ排除される対象になるだろうに。
 大切だった人ばかりが、自分の前からいなくなる。
「面倒くさいから落ち込むな」
 今度こそ落とされる拳。
 決して重くはないそれだが、大怪我している身体には十分響く。
「…痛い……」
「痛みのひとつやふたつ、増えたって変わらないだろ」
 それはそうだが気分的には変わる。
 反撃することも適わない己の身体を恨めしく思いながら、一番聞きたかったことを言葉にのせた。
「なんで、私生きてるの? キーラは?」
「あの魔術師か? あいつには逃げられた…というべきか、見逃されたと言うべきか」
 苦い顔をしたファイは、長い脚を組んで話し出した。





 どこか見覚えのある魔術師がレオナに意識を向けている隙をついて、ファイは予め持ってきていた魔法具を使って彼女の攻撃を無効化した。
 バレンシアから餞別にと渡されたそれは、王宮でも希少価値の高い魔道具だ。魔術師でない彼には身の回りの術にしか効果を表せないが、今はそれで十分だろう。


 ファイは宿に残っていたユーリにそのひとつを渡し、どこか見つかりにくいところに隠れていろと短く命じてから、最も危険な場所に単身向かった女の元へと急いだ。
 魔伎の夫婦は犯人ではない。
 その確信はあったが、犯人がいるというのは変わりない。だとすれば、異常な町人のなかで唯一正気を保っていそうな彼らはなにかしら犯人と接点があり、命を狙われる可能性は非常に高い。
 犯人と顔を合わせてしまうかもしれないレオナの身を案じた。
 そうして辿り着いた先では、最悪とまではいかないものの、かなりまずい状況になっていた。犯人であろう女の魔伎と対峙しているレオナは全身にひどい怪我を負っており、さらには身体から黒い糸のようなものが出て頭上に球体を作っている。
 血を抜かれているのだと看破するのに、さほど時間は掛からなかった。
 幸いにも女はレオナに集中しているらしく、ファイの存在には気付いていない。服の上から魔道具を確かめ、間に割って入った。
 瞬間膝から崩れた連れの女を抱きかかえ、空いた手で剣を抜く。
「悪いが、まだこいつを死なせるわけにはいかないんでな」
 血に塗れたレオナは心身ともに限界のようで、しばらく目覚めないはずだ。人ひとりを庇いながら戦闘に慣れた魔術師をまともに相手取ることができるだろうか。
 魔術師は、基本的には後衛型が多い。術の詠唱に時間が掛かってしまうし、そもそも鍛錬をしようと思う者は少数なのだ。
 手元にあるのは防御性の魔道具のみ。
 魔道具だけで防げるものかわからないが、魔術師相手の鍛錬だって当然積んでいる。前衛に出てくる魔術師との対峙は多くはないので実戦経験はあまりないのだが、簡単にやられるつもりはない。
 策を巡らせていると、目を瞠っていた魔術師が蠱惑的な笑みを浮かべた。
「なーんだ、あとちょっとだったのにぃ。お兄さんお久しぶりー。で、一緒にさよなら」
 両手を大きく広げる。
 可視か不可視か予想はつかない。どんな術だろうと避けきれる自信を持って、彼女の瞳を見据えた。赤みがかった紫銀の瞳に翳が落ちる。
 ――くる。
 足に力を込めた。が、周りの様子が前触れなく変わった。
 魔力を持たないファイには、レオナの魔力が消えていたこともキーラの禍々しい魔力が場を満たしていたことも感じ取れない。ただ、なにか嫌な気配が満ちていたことと、それが突然霧散して跡形もなく消えたことは肌で読みとった。
「…ちょっとぉ…、なんのつもりぃ…?」
 感情を露わにした魔術師は、ファイではない誰かに向かって問いただしているようだ。
「はぁ? 意味分かんない……あ、そう。はいはい従いますぅー」
 会話の内容はまったく掴めないが、この機を見逃しはしなかった。
 腰に帯びていた短剣を抜き、額目掛けて素早く投擲する。
 意識を飛ばしていた彼女は反応が遅れ、目を見開いたまま動かない。
 あっけない。そう頭をよぎった言葉は、一瞬後に消え去った。白い肌に肉迫した刃は、空中で金属音を鳴り響かせて弾かれた。
(防護か)
 彼女は表情を変えないまま、ゆっくりと己の額を撫でた。
「あっぶなーい。今死を覚悟しちゃったじゃん、あーぶなーい」
 自身で防護していたのを忘れていたのか、魔術師は何度も何度も確かめるように額に触れる。
 反撃をさせる暇を与えぬよう、レオナを素早く横たわらせ、剣を構えなおして地を蹴った。距離を感じさせないほどの速さで間合いを詰め、首を正確に薙ごうと剣を振るう。
 今度こそ避けられる速さではなく、防護で防げないほどの力を以って振られた剣は、唐突に空を切った。
 目の前にいて一瞬たりとも意識を逸らさなかったはずの彼女は、ファイの間合いの倍ほどの位置に立っていた。今度は、繋がっていることを実感させようとするかのように首を押さえている。
「残念だけど、今日はここまで。別に逃げるわけじゃないからね! むしろ命拾いしたと思いなさい!」
「それは俺の台詞だろ」
 転移だろうか。正確に判断できないが魔術で回避したには変わりない。
 避けたということは、ファイの刃は彼女に届くということだ。それならば、今、組織の一員であろう彼女を易々と見逃すつもりはない。
 柄を握り直す。
「あたしの台詞だってのー」
 不満そうな魔術師の姿が霞んだ。
 とっさに距離を縮めるが、その刃が届く前に霧のように彼女はかき消えていた。

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