朱の月

3話‐10‐

 言うなりキーラは両手を大きく広げ、なにかを操るように素早く交差させた。すると彼女の手から可視の透明の鞭のようなものが2本現れ、レオナを襲ってきた。
 とっさに大きく左に避ける。しかし、かわしたはずのそれは急に方向を変え、反応しきれずに右足を掠った。
 鋭い痛みが走り、自分の判断ミスに内心舌打ちをする。
 どう見たってあれは魔術で作ったもので、それならば彼女の意思で自由自在に操れて当然だ。避けるのではなく、相殺するか結界で防ぐかしかない。
「ほらほらぁ、いくよぉー!」
 高揚した様子で声を張り上げたキーラは、出現させた鞭だけを操っている。
 町人を殺害した手口といい、攻撃の手段といい、彼女は水の術を得意としているようだ。自由に動く2本を相殺することは手間だと考え、結界を張って防ぐ。
 反撃のタイミングを計りながら追撃を受けた瞬間、激しい衝撃とともに結界が四散した。
 再度立て直す余裕もなく、驚愕したまま攻撃を受ける。
 腕と脇腹に食らったものの、結界を破壊したほどの威力はない。それはキーラに殺意がないからだろうことはすぐに理解できた。
 彼女はこの状況を心の底から楽しんでいるのだ。
 嬲ることが目的なのか、一度攻撃したら少し間をあける。破壊されるのはわかっていたが、それでもレオナはまた結界を張った。
 なんて威力だろう。レオナが張った結界は対魔術のためのもので、その強度には自信があった。
 にも拘らずそれがこうも簡単に破壊されてしまっては、抵抗する気力も失われてしまうほどだった。
 兄に会うためには、引くわけにはいかない。
 ただその意思だけで逃げたくなる気持ちを抑え込んでいた。
 次に襲ってくる鞭に対し、少し結界に工夫を加えてみる。全方位に張ってはいるが、強度に差をつけた。攻撃される箇所だけを意識的に強化する。
 精神的な負担は増えるが、未だ対抗策が浮かばないレオナにはこうするしかなかった。
 思惑通り攻撃を防ぐことに成功すると、結界の向こう側で、キーラが唇の端を上げるのが見えた。



「ねぇー、せっかく面白くなってきたのにー、…それだけ?」
 余裕の表情で自らの作りだした水の鞭を弄っているキーラを、肩で息をしながらきつく睨みつけた。
 彼女の攻撃を防ぐことができたのは、一回だけだった。レオナの新しく組み直した結界を一度見ただけで、すぐにそれを上回るほどの精度の術を放ったのだ。
 使っているのは先程とまったく変わらない水分を固めた水の鞭。変えたのは速度と操作精度だ。
 破られない強化した部分を避けて薄い部分を狙われ、意図的に視認してから強度を調整したのでは間に合わないほどの速さで、思いもよらないところから破ってくる。
 何度か無力にも破られたところで、反撃も試みた。
 もう結界の意味がないことを十分にわからせてから、破られると同時に発動する罠を仕掛けておいた。術の鞭は水分でできているため、それを瞬間的に凍らせて破壊。飛び散る破片を一斉に襲わせたのだ。
 が、彼女に迫るところまでは成功したものの、それが傷を負わせることはなかった。当たる直前で、じゅっと音を立てて消えてしまったからだ。
 おそらく熱の術で瞬間的に体の周りか破片の温度を上げて蒸発させたのだろう。
 本来自然を司る術で対極にあたる系統は習得が難しい。だからこそ、キーラは炎系なら不得手で防ぎにくいだろうと踏んでいたのだが、まさか熱を操れるとは考えていなかった。
 反撃をなんなく防がれ、畳み掛けるように襲い来る術に対し防戦一方とならざるを得なかったレオナの結界が破壊されては張り、破壊されては張り、それが何度繰り返されたことか。
 手加減されているおかげで初めに受けたもの以外は特に外傷はないが、魔力の消耗が激しいせいで精神的な疲労がひどかった。
「もっとがっつがっつ来てくんないー? つまんないとぉ、…殺っちゃうよん?」
 キーラは相変わらずどこか人懐こそうにも見える笑顔でいるのに、氷のような瞳の色に恐怖を感じずにはいられなかった。
 まだ死ねない、死にたくない。ファイも来ると言っていたのだから、せめて彼が来るまでは…。遊ばれていていいから、本気を出されないように、なんとか時間を稼ぎたい。
 そんな後ろ向きな考えが伝わってしまったのだろうか。
 キーラが不意に笑みを消して目を細めたかと思うと、周りの温度が急に下がったように感じ、レオナを囲むように拳大の水の球体がいくつも宙を漂っていた。
 なんだろうと思う間もなく、彼女が指を鳴らすと同時に、それらが避けようのない速さでレオナを襲った。
「っあぁ!!」
 銃弾のように襲ってきた球体のいくつかがレオナの腕や足などを貫通する。
 頭がマヒするくらいの激痛に身体を屈めながら、必死にキーラの姿を見失わないよう、視界に捉える。すると彼女はどこか驚いたように目を丸くし、顎に手を添えた。
「へぇー、驚いた! いつの間に防護なんてしてたのー?」
「…対魔術師だから」
 痛みに顔を歪めながら、声だけは平然と聞こえるよう端的に答えた。
 防護は名の通り自身の周りに防御性の結界のようなものを張る術だ。結界とは主に強度が違ってくる。
 結界は条件づけにもよるが、魔術師からの攻撃ではない限り、かなり耐久性がある。しかし防護はいわば応急処置のようなもので、簡単に張れるかわりに衝撃を和らげる程度しか効果がない。ただし精神作用の術は確実に跳ね返すことができるため、対魔術師の戦闘では重宝される術だ。
 相手は町中に催眠をかけられる魔術師。そんな人物と対峙するとなれば、自分も操られて自害させられたり、利用されてファイや他の人に危害を加えたりするのを防ぐために、防護をしておかねばと思っていたのだ。
 突発的に戦闘が始まってしまったので、攻撃の隙間を見つけてなんとか術をかけられた。
 しかし、レオナのかけた防護程度では、キーラの放つ術は防ぎきれない。
 それでも防護の膜によって一瞬だけでも水の弾を食い止められたため、いくつかの弾を避けて致命傷は免れたのだ。
「ふんふん。意外にやるけど、ジェイクと比べると大したことないね」
 再び紡がれる兄の名。
 敏感にその名に反応してしまう自分に、笑ってしまいそうになる。
「うーん、魔力もそんなに違わないと思うんだけどぉ、なにが違うんだろ?」
 こめかみを抑えて考え込むが、隙は一切ない。
 ついさっきまで感情のない冷え切った瞳をしていたのに、まるで別人のように軽い調子でいる。
 気まぐれで気分屋。自分が楽しむことを第一に考え、楽しければ人の命などどうでもいい。自分の命さえも、軽んじているように思う。
 ヘヴルシオンの目的がなんなのかはわからないが、彼女が国をどうにかしようと考えているとは思えなかった。
 近衛兵士のファイと行動を共にしているレオナは、組織からすれば非常に邪魔な存在に違いないが、簡単に殺せるものをそうしようとはしない。
 ひらめいた、と言うように指を鳴らす。
「わかった! 妹ちゃんのほうが、甘いね!」
 続けられるであろう言葉に、悪い予感しかしない。
 キーラは妖艶に目を細め、頬に手を添える。
「あの優男は顔に似合わず、か−んたんに人を殺しちゃうのにねぇ…♪」
「――うるさいっ! あんたが…あんたが兄さんのなにを知ってるって言うのよ!」
 挑発されている。
 そんなことはわかっているのに、ジェイクのことを悪く言われてしまうと堪えることはできなかった。
 嘘を言っているのではない。嘘ではなく事実だからこそ、余計に血が上るのだ。
 あの優しい兄さんを、快楽殺人者みたいに言わないで。
 怒りに任せて魔力を解放し、かまいたちをいくつも放る。余裕を隠さず、キーラは前面を鞭で、後面を簡易の結界で防いでいる。
 彼女の意識が少しでもそれに向かっている間に、レオナは小さく詠唱を紡いだ。薄く目を開き彼女の姿を視界に捉えながら、言葉に魔力を乗せる。
 すべての風が薙ぎ払われたと同時に詠唱が終わると、キーラを囲うように銀色に輝く円環が6つ浮かんだ。
 レオナが力を放った瞬間、それに気付いた彼女が目を丸くしたのが見えたが、すぐに円環から中心に向かって、激しい炎が噴き出したため、視界が遮られる。
 青と赤が混ざったような美しいそれは、宙を裂くような音を立ててキーラを包み込むと、しばらくした後消え去った。
 レオナは肩で息をしながら、炎が消えた先を注視する。
「びーっくりしたぁー! あと一歩遅かったら焼け焦げ…うーん、形も残ってなかったかも?」
 これすらも効かないのか。
 危ない危ないと言いながらちっとも不安に思っていなかったような無傷のキーラを見て、レオナは絶望を感じていた。
 どのようにして防いだのかはわからない。しかし今のレオナが一対一の戦闘で使うことのできる殺傷能力の最も高い術をあっさりと看破されてしまっては、これ以上どうしていいのか見当もつかなくなったのは確かだ。
 ふと彼女が自身の袖を持ち上げ、固まった。袖の先端が焼けている。
「うそ…これ、お気に入りなのに…」
 聞き取れるかどうかの声量で呟くと、レオナをきつく睨んだ後、髪を振り乱すように首を振る。すると輝かしいほどの金色だった髪が、根元から波打つように銀色に変わっていった。
 常にかけていたのであろう変身の術を解いて本来の彼女の姿に戻ると、身体に費やしていた魔力も戻ったのか、解放されている魔力のせいで空気が凍るように張りつめた。
「許さないんだからねー?」
 冷笑を浮かべ、低い声でキーラが言った。

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