朱の月

3話‐8‐

 なるべく人目を避けながら、夫婦が営む店へと急いだ。中心部はかなりの騒ぎになっていたが、こちらのほうはほとんど人もいなく、静かすぎるほどだった。
(やっぱりマウロさんたちは疑われてないんだ…)
 家の前にも誰もおらず、相変わらずきつく閉められているカーテンのせいで中の様子は窺えない。
 中にはいるはずだ。
 レオナは意識を集中して彼らの魔力を感じようとする。すると、彼らを感じる前に術の気配が満ちていることに気が付いた。
――空間制御だ。
 アンヘラには結界を張れるほどの力はなく、マウロはその能力がない。彼の唯一で十八番である空間制御で、結界に近い状態をつくったのだろう。
 試しに扉に手をかけると抵抗なく開いたが、室内は異様な空間になっていた。
 一見おかしいところはなにもないような、先程来た時となにも変わらない店内だ。
 しかし、外からはカーテンが閉まっているのを確かに見たが、中から見える窓にはカーテンなどかかっておらず、目映い日差しが床を照らしている。机や棚などには何か月も留守にしたかのように埃が白く被り、生活感が全くない。
 別の部屋や二階に上がろうとも、結果は同じだろう。完全に中と外で別空間が造りあげられている。
 彼が術を使ってしまえば、外からの干渉は不可能。
 正しくは、レオナには不可能だ。
 結界の解除はある程度の魔力があり魔力の分析に長けていて精密なコントロールができれば、術を自身が使えずとも可能であるが、空間制御はそうはいかない。術が使える者でなくては、術を分析して己の魔力を溶け込ませることなどはできないのだ。
「――っアンヘラさん! マウロさん! 聞こえるでしょ!? レオナです、お願い中に入れて!!」
 空間を隔てられてしまったら、声が届いているという確証もなかった。
 それでも術に干渉できないレオナは声を張り上げることしかできず、術外の家の外から懇願する。
「マウロ…さん…!! ごほっ」
 咳のしすぎで目に浮かんだ涙を拭いながら、まだ諦めることはしない。術をかけているということは、中に必ずいるのだ。
 ファイが言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
 “犯人でも、犯人じゃなくても”
 彼らが犯人だとしたら、ファイは容赦なく裁くだろう。犯人でないとしたら、捕まる心配はなくとも殺される可能性が非常に高い。
 どちらにせよ、もう二度と会うことはできなくなる。レオナにも、理解したくないものの頭のどこかでそうなるだろうという予感があった。それを、回避したい。
 もう一度大きく息を吸い込み腹に力を込める。
 その瞬間だった。
 目の前の魔術の気配が弾けるように完全に消え去り、悲痛な断末魔が響き渡った。
「マウロさん…アンヘラさん!?」
 人とは思えないほどの声に頭が真っ白になったが、すぐに夫婦の姿を思い出して扉に駆け寄ると、それは内側から開いた。
 よかった、無事だったのだ。
 一瞬前の断末魔のことも忘れ、安堵して待ったが、現れた人物を見て息を呑んだ。状況を理解することができず、完全に機能が停止した頭では悲鳴を上げるのを堪えるのがやっとだった。
 開いた扉から出てきたのは確かにアンヘラだったが、胸に刃物が深々と刺さっていたのだ。
 うつろな瞳をしている彼女は言葉にならないような呻き声をもらし、ゆっくりとレオナの方へ首ごと目を向ける。
 恐怖と絶望の瞳がレオナを映すと、一層顔が歪んだように思った。
 彼女を支えることも、なにか声を掛けることもできない。足が地に根を張ったかのように、声が枯れてしまったかのように、全身を凍らされたかのように、指一本すら動かせなかった。
 すると、傷口からなにか赤いものが吸い出され始めた。それはアンヘラの頭上で渦を描きながら球体になり、だんだんと大きさを増していく。
 同時に彼女の身体がしぼんできているのにも、遅れて気付いた。
(――血が?)
 レオナが動けない間にも赤い球体は大きくアンヘラの身体は細くなっていく。
 彼女の目がくぼむほどになって、やっとレオナは正気を取り戻した。
「…だ、だめ!」
 魔術で血を抜き取っているのは間違いないが、どうすればそれを止められるかがわからない。おそらくレオナよりも強いであろう魔力に対して同じ血――正確には水――を操る術を使ったとしても、レオナの術が負けて意味がないだろう。
 彼女の時間を止めたとしても、レオナの術が解ければすでにかけられている術が再び発動する。
 どれだけ考えてもいい答えは浮かばず、ただただ時間が刻々と過ぎていく。もうアンヘラに時間はあまり残されていない。
 早くなんとかしなければ、早く、早く自分が――!
「――アンヘラさん、ごめんなさい!」
 駆け足で彼女に近寄り、勢いに任せて刃物を引き抜く。間髪いれずに、炎を纏わせた自らの手を胸に押しつけた。
 アンヘラがあげた苦しそうな叫び声に逃げ出したくなったが、まだ傷口を塞げていない。治癒の術も満足に使えないレオナには、こうして無理やりに傷口を塞いで血の出口をなくしてしまうことしか思いつかなかったのだ。
 胸中で何度も謝罪しながら、肉の焼ける嫌な臭いに耐えた。
 吸い取られていた血が止まったのを確認すると、すっかり面影のなくなってしまったアンヘラが、それでも息は確かにして倒れた。
 無事とは言えないが、なんとか救うことはできた。
 こうして命を狙われていたということは、やはり犯人ではなかったのだ。自分の見知った、優しかった人たちが残虐な行為をしていなかったことに心底安心する。
 へたりと地に座り込む。
 彼女が出てきた扉が視界に入って思い出した。マウロはどこに?
 術を張っていたのは彼だから、意図的にというよりは、彼になにかがあって術が解けてしまったと考えたほうがいいだろう。アンヘラだって刺されているのだから、無事でいる可能性はかなり低い。
 震える足を軽く叩いてから立ち上がり、おぼつかない足取りでマウロの名を呼びながら家の中に入った。



 マウロは、部屋の隅で小さくなっていた。
 歯が噛み合う音が聞こえるほどに震え、頭を抱えてなにかを繰り返しつぶやいている。
「マウロさん?」
「も、もういやだ…私たちは、もう…」
「マウロさん!」
「なんで…なんで…」
 レオナの存在を認識していないようだった。
 ただなにかにひどく怯え、しかし自分がそれから逃れる術がないことを理解して追い込まれている。
 彼の肩を強く掴み、目を見ながら大きく揺する。
「マウロさん! こっち見て! 大丈夫、アンヘラさんもまだ生きてる! 私が助けるから!」
 何度か繰り返すと、ようやくマウロはレオナをその目に映した。
 目が合ってまじまじと見ると、急に彼が老けたように感じた。覇気がなく、アンヘラと同じように恐怖と絶望しか感じていない瞳。
「…レオナ? …もう終わりだ、早く逃げなさい。この町はあいつに取りこまれてしまっている…!」
「あいつ? あいつって誰?!」
「それは知らないほうがいい……早く、逃げ…!」
 言い切る前に彼は突然目を見開き、声にならない音を出して喉を押さえる。
 血走った目で救いを求めるようにレオナへと視線を向けると、痙攣している片手を伸ばしてきた。その目の狂気さに、とっさに身体を引いた。
「…――あ、」
 思い直したレオナが手を差し出す前に、マウロは地に伏した。
 彼の名を叫んで抱きかかえる。
 しかしすでにこと切れており、大きく開いたままの目が、息絶える瞬間までの苦痛と絶望をそのまま表わしたかのようだった。
 顔を見ていられなくて背けると、だらりと落ちている腕が目に入った。袖から出ている手首に、なにか入れ墨のようなものが見えた。
(…入れ墨?)
 つい最近、同じようなものを目にしている。
(術印!!)
 彼の腕を取って袖をまくると、セラルト領で盗賊たちの腕にあったのと同じそれが刻まれていた。
 セラルト領で術をかけていたのは――ジェイクだ。
「…兄さん! 兄さん、いるの!?」
 室内に彼の気配はない。それでも遠くはないはずだ。
 集中して魔力を辿る。
 やはり残っている魔力はジェイクのもので、会えるかもしれない喜びと、マウロの死に対する怒りと悲しみ、彼が人を殺めたのを再び見てしまった喪失感などで感情が乱れてしまう。
 それでも真新しい術のために魔力は辿りやすい。
 あと数秒で捕捉できる、そう確信した途端、すっと、跡形もなく魔力が消えた。
 隠したなどというのではなく、まさに“消えた”のだ。
 普段に魔力を隠されていれば気付かないこともあるが、術後でさらにこちらは辿っていた。この状態で魔力の片鱗も残さずに消すことなど不可能のはずなのに。
「…なんで!?」
 手掛かりを掴み損ねてしまったことで焦り、直前までは辿れていた魔力を頼りに追おうと外に出た。
 すると、道に倒れたままのアンヘラの側に老人が1人、しゃがみこんでいた。
「これ、あんたがやったのかね?」
 彼の問いに答えることはできなかった。
 アンヘラを刺し、血を抜こうとしていたことなら違うと断言できるが、胸にひどい火傷をおわせたのは自分だ。それを説明したとしても、どう見てもレオナは怪しすぎる。信じてもらえるはずはない。
 逡巡している間に、老人はゆっくりと顔を上げ、にやぁっと唇を歪めた。
 真っ白の髪の毛が顔の半分くらいを覆っているが、そこから覗く赤紫の瞳を見て、パズルのピースが急にはまったように事件の謎が解けた。
 印象的な瞳。一度見たら忘れないほどの。
 この町に来てからずっとあった既視感、辿れない魔力、町人の様子。不可解なそれらが示しているものは、ひとつしかない。
「それをやったのが誰かなんて、あなたが一番わかってるんじゃないですか? …――コジュさん」

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