朱の月

3話‐6‐

 さっきのはなんだったのだろう。
 意地を張っているから、こどものようにあやされただけ、と解釈していいんだろうか。あの男はふと優しさを見せるというか、自然に甘やかすのに慣れているというか、いやいや、ただこども扱いしているだけに過ぎない、そうだ違いない、とレオナはファイの背を見ながら思った。
 両親は早くに亡くし、レオナを甘やかしてくれていたのは兄ジェイクとミシェルだけだった。
 とは言っても、ジェイクはただ静かに頭や背を撫でていてくれただけだし、ミシェルのはちょっと異常というか…。つまり、あまり普通に甘やかされた記憶がない。
 だから彼の態度はどういうものなのかと考えて、結局わからずにもやもやする。
 確実にレオナに対して恋愛感情は持っていないということはわかりきっているのだから、考えても意味のないことではあるか。
 レオナが悶々と考えている間もファイは通りすがる人に逐一声を掛け、夫婦やコジュについての話を聞いていた。
 聞こえてくるのは、しつこいほどに同じようなことばかり。あの夫婦はいい人だとか、コジュにいつ嫁は来るんだろうとか、危機感のないどうでもいい内容だ。
 それにファイは律儀に反応を返している。
 ほとんど流しているような雑なものだが、相槌に気を良くするのか、町人の世間話はなかなか終わりが見えなかった。
 今また会釈をして町人に背を向けたファイの横顔を盗み見たら、半目で苛立ちをはっきりと表情にのせ、溜息をついた。
「もう俺は聞かねぇ」
 自分の対応が残念ながら悪い結果を招いていることには気付いているのだろうか。
「まぁまぁ、そう言わずに」
「そうも言いたくなるだろ、これじゃ」
 レオナもファイに同感していたため、否定はしなかった。
 それよりも今は、視界に入るほど近づいたコジュの家を見て心臓がうるさく鳴るのを、どうにか抑えようとするので精一杯だった。
 自分が言ったのだから、しっかりと見て微かでも手がかりを掴まなくては。
 すると、コジュがちょうど家から出てきた。手には大きい黒のカバン――診察道具が入っているのだろう――を持っている。
 普段はコジュの家兼診療所で診ているのだろうが、今診察室には遺体が並んでいる。事件が起きてからは、コジュが患者のところを訪問しているらしい。
 扉を閉め、こちらを向くと、すぐに気づいて手を振ってきた。
「やあ、グローリーさんとフィンディーネさんではないですか! こちらへは戻って来ないかと思ってましたけど、なにか忘れ物でもありましたか?」
 明るすぎるコジュの様子に、ファイがこっそりと息を吐いた。
 そうか、ファイは彼が決して得意ではない。
 というか、彼が得意な人物って誰なのだろうか。レオナも相性がいいとは言えないし、バレンシアなんかトラウマを作らせた人物だし、ランカもミシェルも苦手そうである。唯一気軽に話していると感じたのはブルーノだが、彼とは誰だって穏やかに話せるだろう。彼が気を遣わず、素で楽に話していると考えればユーリ…と言えなくもないが、ユーリ側は非常に嫌っている。
 考えれば考えるほど、少し心配になるほどの対人関係だ。公人としては構わないのだろうが、私人としては実は敵しかいないのではないか。
 などとレオナが失礼極まりないことを考えていると、ファイは心情を感じさせない、見事な笑顔を浮かべてコジュに近づく。
「いえ、少し遺体を見せていただきたいと思っていたのですが…これから出掛けられるようですね」
「遺体を? あー、はい。確かにちょっと往診に行かないとなんですけど、入っても大丈夫ですよ。特に盗られて困る物もありませんし。…ってあぁ! いえいえ、違うんですよ、決してグローリーさんがそんなことをするとか疑っているわけでは!」
 コジュは失言してしまったかと慌てて手を振りながら撤回する。
「そんなようには考えていませんから、心配なさらずに。では遠慮なく失礼致します」
 少し照れたように顔を赤くしたコジュの脇を軽く会釈して通り過ぎ、何時間か前に出て行ったばかりの部屋へと再び足を踏み入れた。




 室内は、一度外気を吸った後だと、やはり診療所らしい薬品の臭いが鼻につく。
 落ち着いて、余計なことは考えずに遺体と向き合おう。そう暗示するように胸中で言い聞かせていたが、なぜか先を行っていたファイが居間の椅子に腰を下ろしてしまった。
 出鼻を挫かれたようで脱力してしまう。
「え、と、入らないの?」
 もしかして、レオナだけで確認してこいという意味か。
 確認したいと言ったのは他ならぬレオナ自身だが、ファイも一緒に部屋に入ってきてくれると思っていた。
 ひとりであの姿を見る勇気はない。コジュがいれば付き添ってくれただろうが、彼は外出してしまっていない。となると頼れるのはファイだけしかいない訳で。
 そういう不安の感情を思わず言葉にのせてしまった。
 ファイはレオナを見やると、尊大に足を組んで椅子の背に身体をあずける。
「なんだ、ついて来て欲しかったのか?」
 人の悪い笑みに苛ついた。
 この男、絶対わかってやっている。
 そもそも遺体の確認をすると言ったとき、自分で言うのもなんだがレオナはわかりやすく怯えていたのだ。本当は見たくないとも伝えたし、恥ずかしいことに告げた声もわかりやすく震えていた。
 それなのに、その、人を馬鹿にした態度はなんなのだ。
 ついて来て欲しいに決まっている。
 しかし目の前のファイの姿を見てしまうと、どうしても素直に言えない。というか言いたくない。
「別に、そんなこと言ってない」
 レオナは、強がってファイの横を通り過ぎようとする。
 ああ、ジェイクならなにも言わずに、穏やかな笑みを浮かべて、さらには背を優しく叩きながらついてきてくれるのに。
 やっぱりファイは優しくない、甘くない、意地が悪い。
 心の中で呪いの言葉を吐きながら、部屋へ続く扉に手を掛ける。
 同時に肩に温かい手が置かれると、ファイが呆れた瞳で見降ろしていた。
「お前さ、女ならもう少し可愛げとか持てないのか?」
「なによ、か弱く求めて欲しかったの?」
 ファイに言われた口調と表情を真似ながら、演技がかったように言う。
 強くはないが、弱くて守られるだけの女性にはなりたくない。だからこそ、レオナなりに強くなろうとあまり人を頼らずになんでも自分でこなし、涙を封印して弱音だって吐かないようにしてきたのだ。
 当然レオナだって、か弱くて庇護欲をかりたてられ、誰からも愛されるようないわゆる“可愛い女性”には憧れもするが、どうしてもそれは自分ではない。
 ファイは肩に置いた手を頭に置き換え、ぽんぽんと2回軽く叩いて先に扉を開けた。
「いや、そのほうがお前らしいな」
 どういう意味だ。
 からかわれもしたが、ファイは一緒に入ってくれるらしい。
 彼が半身で開けている扉の先は暗く、慣れていない目では中の様子が窺えない。しかし重く沈んでいるような空気はひしひしと肌で感じ、どこか寒々しいようにすら思う。
 恐怖が再びこみ上げてくる。
 硬直している足を無理やり動かし、部屋へ一歩踏み込む。
 中は闇だった。
 重々しい空気は中に進むほど濃くなる。ゆっくりと足を進めていくと、だんだんと視界がはっきりして中の様子が見えてきた。
 部屋にはベッドがいくつも置かれ、その上に白いシーツが掛けられたものが並んでいる。起伏のあるそれは、5つ。
(…あれ? この感じ…どこかで…)
 魔力は意識しても辿りにくいほど薄く、まだ感じられないが、気配といえばいいだろうか。なんとなく、この部屋――遺体から感じ取れる。
 ファイは感じていないようだが、間違いない。
 どこかで同じものを感じたことがある。例えるならば、意識しているわけではないがファイの匂いはなんとなく認識されていて、ふと町中でその匂いを感じると、“あれ、どこかで嗅いだことのある匂いだ”と思うような感覚。
 どこかはわからないが、確かに同じ気配の人物と関わっている。
 感覚を思い出そうとしながら一番手前にあるベッドに寄り、身体を覆うシーツに手を掛ける。
 ゆっくりとめくった下から脳裏に焼き付いているミイラのような手が見え、動きが止まった瞬間、ファイが機敏な動きで振り返り、すぐに家の扉を叩く大きな音が響いた。
「先生! 先生、いないんですか!」
 切羽詰まった声に、ファイが警戒しながらも足早に部屋を出ていく。
 動くことができずに硬直していたレオナは、耳を澄ませて訪問者とファイの様子を知ろうとした。声はほとんど聞こえず、緊迫した空気だけが伝わってくる。
 そのもどかしさに耐えられずなんとか身体を動かすと、再び荒げられた声が聞こえた。
「お前らが先生を連れ去ったんだろう!」
――え?
 声が伝える意外な内容に思考が停止し、嫌な予感が胸に広がる。
「なんの根拠があるんですか」
「町の者は先生に感謝している! よそ者と言ったらお前たちしかいないだろうが!」
「我々には動機がありませんが」
「そんなこと知るか! 実際に先生がいなくなったんだ!」
 コジュがいなくなった?
 町人はレオナたちがコジュをさらったのではないかと疑っているようだ。かなり激昂しており、冷静な口調で落ち着かせようとしているファイの言葉には全く耳を貸さない。
 レオナが診察室兼霊安室から顔を出すと、見るからに憤慨した様子の町人が室内に押し入ろうとする勢いで、入口を塞いでいるファイを問い詰めている。
 ファイはあまり相手にしていないようだが、詳しい話を聞いて事実を確認には行きたそうな、複雑な顔をしている。
 レオナの姿を目に留めた町人がさらに目を吊り上げて怒鳴った。
「そこの女! お前が先生をそそのかして連れてったんだろ!」
「魔伎にしか犯行できないんだろ!?」
 とめどなく与えられる罵声に、頭がぼーっとしてしまった。
 責められて怖いとか、つらいとか、そういった感情ではない。ただ、気味が悪いのだ。
 町では普通に受け答えしてくれていた人が、急に自分たちを疑って狂気を感じるほど責め立てる。レオナと同じ魔伎であるマウロ夫婦のことは盲信し、次の被害者になることはまったく恐れていなかったのに、コジュが消えたことには過剰に反応する。
 なにかおかしい。――気持ち悪い。
 身震いしたとき、1人がファイの脇を通り抜けてレオナに襲いかかってきた。
 殴られる――と覚悟して目を固くつむったが、痛みが与えられることはなかった。恐る恐る目を開けると、殴りかかってきた男がファイに昏倒させられていた。

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