朱の月

3話‐3‐

 気にせず黙って通り過ぎるには異様な光景だったため、ファイは短い逡巡の後、そちらへ足を向けた。
 人々が集まっていたのは、中心部にクルグスの象徴的に造られている噴水の前だった。人垣が立ちはだかっており、レオナからは噴水の頂上部がかすかに見える程度だ。
 周囲では特になにを話すでもなく、ただ暗い顔をして視線を這わせている。
「これ、なに?」
 声を落としてファイに問うが、厳しい表情のままなんの反応も返ってこない。
 レオナには先がまったく見えない。どうにか把握できないかと、背伸びをしながら頭を出すが、結果は変わらなかった。
「はいはーい! 道開けてくださーい!」
 静寂に割って入ったのは、雰囲気にそぐわない力強い声だった。その声に急に生気を取り戻したように、人々が口々になにか言いながら道を開ける。
 ちょうど横に道ができ、声の人物が駆け足でそこを通りぬける。
 若い男だった。明るい茶色の髪はぼさぼさで、度の強そうな分厚い眼鏡をかけている。身を包むのは白衣であることから、この町の医者なのであろう。
 彼の後ろから顔を覗かせた。
 噴水のそばで彼が背を向けて腰を落とし、しわの多い枝のようなものを持ちあげている。その先は五つに分かれて丸く曲がっており、なにか物を掴むときの手のような――。
「…死体か」
 レオナがそれがなにか気付いて寒気立ったのとファイが独白したのは同時だった。
 人間の身体にしては異様なほど細く、干からびたミイラのようになっているが、あれは間違いなく人の手だ。初めて見る変死体に、目を逸らすことができない。
 医者らしき彼が、みていた身体を優しく降ろして近くの人に指示を出す。すぐにそれに布が被せられ、担架に乗せられて運ばれていった。
 そこでやっと、1人の女性がさっきまであれが倒れていたそこで泣いていることに気付いた。
 あぁ、本当にあれは人間だったんだと実感し、身体が震えた。
 女性の背をさすっていた医者が、彼女を支えて立ち上がらせる。すると人々は合わせたように1人また1人と静かにその場を去っていった。
 しかし泣いているのは女性1人だけだった。同じ町で生活している人間があんな不審な死を遂げているというのに、他の人からは驚きや悲しみ、恐怖などは一切感じられなかった。
「おや? あなたはもしや…ファイ・グローリーさんじゃありませんか?」
 場違いな明るい声がファイの名を呼んだ。
 声の主はあの医者だ。
「あぁやっぱり! 近衛兵士の、グローリーさんですね!」
 まさに満面の笑み、という表情で手を振りながら近づいてくる彼とファイに、周囲の人々の視線が集中する。
 背後では、涙の止まった女性が、感情の見えない顔で消えるように去って行った。
「え、なになにファイ知り合い?」
「知るか」
 焦って耳打ちするが、予想外の答えだった。知り合いでもないのに、なぜ彼は笑顔で嬉しそうに近づいてくるのだろう。
 当人のファイはうんざりしたように顔をしかめているし、本当に知らないようだ。
 ついに目の前まで来た彼が、硬直しているファイの手を無理やり取り、ぶんぶんと振る。
「いやー、こんなところで有名な近衛兵士のファイ・グローリーさんにお会いできるとは思っていませんでした! これも神の御加護でしょうか…」
「あ、ああ…そうかもな…」
 ファイが外面を作るのを忘れている。わかりやすく引きつった顔のまま、どうにか手を離せないかとさりげなく抵抗している。
 こういうタイプも苦手なんだなと呑気に観察していると、ユーリが袖を引っ張ってきた。
「レオナ、まずいんじゃないの? 近衛兵士って聞いて、人、戻ってきてるけど」
 言われて見回すと、先程はそれぞれ散っていたはずの町人の大半が戻ってきており、目に明らかな期待の色を浮かべている。
 鬼気迫る、というような雰囲気があり、無意識に身を引いてしまう。
「実はですね、僕はこの町の医者なんですが…お恥ずかしいことに僕では原因を解明できないような死体が残る事件が起こっておりまして…」
 医者は堅く手を握ったまま、目を伏せて声も肩も落とす。
 彼を直視しないよう、ファイはうすら笑いを浮かべて視線を泳がせている。
「そうか、大変だな…」
「もう今日で5人目です。もうこれは王宮の方々に来てもらわなければ…、連絡をしなければ、そう思っていた時に近衛兵士のファイ・グローリーさんがお見えになるなんて、奇跡としか言えません!」
「とりあえず、人のフルネームを大声で叫ぶのはやめろ…」
 気弱なファイの声は医者の耳には入らない。
 嫌な予感が強まってきた。
 隣のユーリも同じ考えのようで、ファイがどうにか逃れられないかときょろきょろしながら見ている。というよりも、少しずつ後退しているのは自分だけでも逃げようとでも思っているからだろうか。いや、違うと思いたい。
 ファイも離れようとはしているが、それは単純に触られているからで、この話の流れは理解していないようだ。
「どうか、殺人犯を捕まえてください!」
「…は?」
 彼が大声で懇願しファイが聞き返すが、その声が聞こえないほど、周りから復唱するかのように捕まえてくださいという声が湧きあがった。



「いやー、本当にありがとうございます! ファイ・グローリーさんがたまたまクルグスにいらっしゃるなんて…。お手を煩わせてしまってすみません」
「いえ、近衛兵士たるもの、国民が困っているところを放ってはおけませんので。…それと、フルネームで呼ぶのはやめていただけますか」
 2種の笑顔の応酬だった。
 近衛兵士としての態度を思い出したのか、ファイは爽やかな笑顔を張り付けて医者の家に来ていた。連れであるレオナたちも同様に。
 純粋そうな笑顔を絶やさない医者はコジュといい、この町で起きている事件に一番関わっている人物だという。医者という職業柄なのか、初対面とは思えないような懐かしさを感じさせる男だ。
 数日前、まだ眠りも深い早朝。診察時間前だというのに、突然家の扉を叩く音とコジュを呼ぶ声がして起こされた。話を聞くと、とにかく早く噴水の前に来てくれと。
「そこで僕が見たのは、先程みなさんが見たものと一緒です」
「あの変死体ですか」
「そうなんです。僕がこう言っちゃいけないんでしょうが…、初めて見たときは鳥肌が立っちゃいました」
 レオナは自身も目にしたあの姿を思い出し、再び気が重くなる。腕と思われる部分しか見えなかったが、それでも人間の身体とは思えない、あれ。
 ミイラとはまた違うようだが、同じように干からびた細い腕と指。
「初めの犠牲者は40代の男性です。彼は今日と同じように、噴水の前で全身の血が抜かれた状態で死んでました」
「血を?」
「はい。あぁ、あの場所からでははっきり見えなかったですよね」
 コジュは席を立つと、隣の部屋へと促した。
 彼の家は診療所も兼ねているようで、今いるのは居間兼待合室、1階にはもう一部屋に続く扉と階段がある。その一部屋が診察室で、階段を上った2階に生活空間が作られているようだ。
 彼が促した部屋には、担架で運ばれていたあれがあるのだろう。おそらく、これまでに被害にあったものたちの遺体も、すべて。
 レオナも行ったほうがいいだろうか。ファイが頼まれていたとはいえ、まったく協力しないわけにもいかない――が、見たくない。
 すぐに立ったファイが一瞬だけ視線を寄こした。
 なにも言わなかったが、ここにいていいと言われた気がした。不安になってユーリを見ると、肩をすくめて首を傾げる。
「ファイっていいやつなの?」
 それはきっと、レオナとユーリは来なくていいと暗に伝えていると思ったからこその質問だろう。
「うん…そうだね。なんだかんだ私たちのこと考えてくれてるみたいだよね」
「ふーん」
 認めたくないと言いたそうに肘をつきながらそっぽを向いた。そんな様子も幼いなーと、内心でつぶやくが、やはり本人には言えない。
「致命傷なのは首の傷ですか?」
「そうです。血も抜かれているので、失血死だとは思いますが…」
「人間業ではないですね」
 確認してきたファイとコジュが、難しい表情で戻ってくる。
 血もないしそろそろ冬で冷えてきているから腐らないんで助かりますがね、と冗談めかして言ったコジュの言葉は聞かなかったことにする。
「実は、不審な点がもう一つありまして」
 これまで犠牲者は5人。性別も年齢も職業も、同じ町に住んでいるという以外はなんの共通点もない。
 ただ、致命傷らしき深い切り傷が首にあること、全身の血が抜かれていること、抵抗した跡や争った跡はないこと、そして必ずあの噴水の前で倒れていることは一致しているそうだ。
「前日まで、被害者に異常な点はないんですよ。全員一緒に住んでいる家族がいて、いつも通りに過ごしていたそうです。それが突然、深夜にふらっと出て行こうとするんですって」
「家族は止めなかったんですか?」
「すでに被害者が出ていたころには止めたそうですよ。でも話しかけるといつもとなにも変わらず、友人に会う予定があるとかなんとか、もっともらしい都合を言われて納得してしまったら、翌朝には帰らぬ人となっていたり、一度は止めたのに知らないうちに出て行っていたり。気付かない人もいました」
 まるで自殺だ。
 自ら殺されに行っているみたいではないか。
「見てくれたグローリーさんならわかるかと思いますが、首も自分で切ったとしか思えない傷なんですよ。血が抜かれるということがなければ、自殺と思っても仕方ないような状況と身体で」
 聞いているだけで頭が痛くなりそうだった。
 自らひとり深夜に外出する被害者。他殺とは思えない身体。手段も目的も不明だが抜かれる血。
 しかし、その状況が示すものは確かにある。個人は特定できなくともかなり犯人が絞られる。
 それができるのは、魔伎しかいないからだ。

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