朱の月

2話‐4‐

 ガラスの割れる音、なにか重いものが倒れる音、そんな騒音がしてレオナは目覚めた。
 目の前に広がっている景色にはまったく見覚えがなく、驚いて身体を起こそうとすると、なんとなく気だるさを感じた。全身にひどい汗もかいている。
(そうか…私、熱が…)
 ふと、控えめなノックがされると家令の男が入ってきた。手にはタオルや桶、着替えなどを持っている。
 近づきながらレオナと目が合うと、ゆっくりとその瞳を細めた。
「おはようございます。お身体の具合はいかがですか?」
「あ、はい…だいぶ楽になってるかと思います」
 失礼します、と言うと彼は警戒させない自然な手つきでレオナの額に手を当てた。しっかりと目を合わせ、何回か瞬きすると離れる。
「もう熱も下がっているようですね。湯と着替えを持ってまいりました。お使いください」
「あ、ありがとうございます。え、と」
「セラルト伯爵様の屋敷を任されております、ブルーノと申します。ご紹介が遅れて申し訳ございません」
「あ、いえいえ! ご丁寧にすみません」
 慌てて頭を下げる。顔を上げると、彼は先ほどよりも深く笑っていた。
 なにかしてしまったんだろうか。そういえば身体は汗だくだし、いつの間にやら寝間着だし、ここは貴族の屋敷なのだ、女性らしからぬ様子に笑われてしまったのかもしれない。
 途端に今の自分がいたたまれなくなって、顔が赤くなるのを自覚しながらうつむく。
「緊張なさらないでください。ここはファイ坊ちゃんがお育ちになった場所です。その坊ちゃんのお連れ様ですから、ご自身の家のように思ってくださって構いません」
「え?」
「先ほどからずっと、一度言葉に詰まってらっしゃるようですから」
 ブルーノに指摘されて初めて気が付いた。そこまで緊張していたというのも恥ずかしく思ったが、変わらず温かく笑っていてくれているからレオナも自然と笑えた。
 なんというか、初対面なのに不思議と安心する男だ。
 親とはこんな気持ちにさせてくれる人のことを言うのかなと、ぼんやり思う。
 レオナには両親の記憶があまりない。兄は多くはなくとも顔も声も覚えているらしいが、レオナはぼんやりとしか思い出せないのだ。そんな親の代わりに愛をくれたのは、兄と以前両親に世話になったらしいミシェルだった。ミシェルには別の意味での愛情を向けられてもいるが、レオナにとっても彼女が大切な存在であることは変わりない。
 再び、激しい乱闘をしているかのような音が下の階から聞こえ、意識が戻された。爆発音まで聞こえた気もして、なにか事件でも起きているのではないかと身構えると、
「では、なにかございましたらお呼びください」
 ブルーノは表情を微塵も変えずに去ろうとした。
「ブルーノさん! 今、なにか大きな音が…」
「あぁ、お気になさらないでください。この屋敷では“日常”ですので」


 水を飲み、汗を拭いて着替えると、もう動けそうなほどには回復しているようだった。先ほどから断続的に聞こえる音がどうにも気になり、レオナは静かに部屋を出た。
 広い廊下には異常はない。静かすぎるのが気になりはするが、この屋敷にはあまり使用人がいなかったようだし、問題はないのだろう。
 部屋に連れられたときは意識を失っていたから道がまったくわからないが、いくら広いとはいえ、家には変わりない。それに音の出所を調べようというだけなのだから、音に向かって進めばいいだけだ。
 そう思ってなるべく音をたてないように進んでいくが、ちょうど音が切れていて目印がわからない。左右に続く廊下に突き当たり、どうするものかと考え込む。
「レオナか? お前起きたのか。もう熱は大丈夫なのか?」
 ずいぶんと慣れてしまった声に振り返ると、満身創痍な様子のファイがいた。
 ここは伯爵邸だというのに、なにが起こっているのだろう。
「私は大丈夫。ところで…どうしたの?」
「あぁ…これは―――伏せろ!!」
 突然の大声と同時に抑えつけられたかと思うと、頭の上をなにかがかすめていった。それは向かいの壁に音を立ててささる。
「え? な、なに!」
「師匠…彼女を巻き込むのはやめてくれませんか」
「それじゃ意味ねぇだろうが」
 ファイが見る先――ナイフが飛んできたほうには、なにやら身体中に様々な武器をぶら下げたファイの師匠が立っていた。明らかに建物内でする格好ではない。
「確かにそうですが…彼女は病み上がりで」
「お前に、それが関係あるのか?」
 引く気配のない彼女にファイは大きく息を吐き、ありませんねとつぶやく。
「とりあえず、全快するまでは部屋にいろ。そこなら安全だから」
「いいいや、意味が分からな」
 今度は手を引かれ、ファイの胸に飛び込む形になった。かなり強くぶつかり、少し痛い。
 頭の上ではまた師匠に向かってなにか怒鳴っているが、もうなにが起こっているのか聞くのも億劫になってきた。
「いいな、部屋に戻るんだぞ」
 解放されたと思うと、ファイはさらに念を押してすぐに背を向け、廊下の奥に消えていった。
 なにを言いたかったのかまったく理解はできないが、その“なにか”に巻き込まれたくはない。大人しく従って部屋に戻ることにした。


「特訓?! …ですか? あれが」
 部屋に戻り少しするとブルーノがお茶を持って現れ、先ほどの2人のことを聞いてみたら、“特訓”なのだと言われた。
 声を上げてしまったレオナにも優しい表情のまま、はいと頷いて口を開く。
「バレンシアさんは長年この屋敷に用心棒として住んでおられます。ファイ坊ちゃんはここで幼少期から王宮に行かれるまでを過ごされましたので、バレンシアさんに稽古をずっとつけていただいておりました」
 そういえばファイはここで育ったのだと、先ほど言っていた。しかし、彼が伯爵の子息などとは聞いたことがない。名だって違う。
「当時近衛兵長だったバレンシアさんが自らお連れになったのですが、こどもがお嫌いなようで…。それで考え付いた特訓方法があれです」
 バレンシアは近衛兵長だったのか。ファイが幼いころに長だったとすると、いったい今いくつ…ではなく、それだったらファイがあそこまで丸め込まれているのも納得できる。
 それにしても、こども嫌いであの特訓? なんだか嫌な予感がする。
「え、と、もしかして…」
「ご想像通りかと思います。型を教えるなどということは一切なさらず、あのようなサバイバル形式のものを24時間ずっとされたのです。鬼ごっこ…と考えていただくのが分かりやすいかと」
 どちらかが攻撃を受けたら“オニ”で、相手を2時間で一度も捕えられなければペナルティーらしい。
 なるほど確かに“鬼ごっこ”だ。
 こどもであろうと、バレンシアは一切お構いなしだろう。こどもが近衛兵長を捕まえられる訳もなし、ただペナルティーをひたすら与えられるというのはトラウマにもなりかねない。――先ほどのように、笑顔で襲われていたら。
「あれ? でもさっきバレンシアさんが攻撃してて、攻撃受けてないのにファイが追いかけてましたけど」
「はい。バレンシアさんはオニだろうとオニでなかろうと、隙を見て攻撃しています」
「じゃあファイは延々と狙われてるんですか?」
「はい」
 彼女に会う前、なんとなく表情が硬かったのはそういうことか。レオナが想像したように、きっとファイのトラウマになっているのだ。
「今では坊ちゃんもうまく応戦できておりますが、昔は泣きじゃくる坊ちゃんにも容赦ありませんでしたからね…。坊ちゃんをあやすのも私の仕事のひとつでした」
 どことなく嬉しそうなブルーノに、本当に愛されて育ったんだなということが理解できた。
 しかし、ファイを“連れてきた”と言うのだから、やはりファイはセラルト伯爵の子息ではないのだ。そんな男がどうして連れられ、側近にまでなっているのか気になるが、いくらブルーノとはいえ他人の口から教えてもらうには気が引けた。
「では、私は失礼いたします」
「あ! ブルーノさん! …お願いが、あるんですけど」
 真剣な表情で言うと、相変わらずの笑顔でなんでしょうと向き合ってくれる。
「私に働かせてもらえませんか?」
「それはお受けできません。あなた様はファイ坊ちゃんのお連れ様、大切なお客様です」
 レオナの言葉で瞬時に厳しさが目に浮かび、口調は初めて聞く堅いものだった。
「お願いします! ファイは自分の力不足を思ってここにきました。私も戦えるようにならないと…人を救えるようにならないといけないんです!」
「仮に働いていただくとしましょう。どうやって力をつけるとおっしゃるんです? ここには魔術師なんておりませんよ」
「いいんです。今回私が熱を出してしまったのは、私が力を使うことに慣れていなかったことが原因です。いままでは慣れていなくても平気でした。でもこれからはそうはいかないんです! もう、目の前でだれかを亡くしたくない…!」
 目をそらさずに言い切ると、彼は否定の言葉を続けなかった。
「なので、お手伝いをさせてください。なるべく日常的に魔術を使えればいいんです。なんでもしますから…!」
 深く頭を下げる。よそ者に手伝いをさせるなんて迷惑なのはわかっている。
 それでも。
「…レオナさんは、昔の坊ちゃんによく似てらっしゃる」
「え?」
「そうですね、私がお止めしたにもかかわらず、レオナさんが自主的に私よりも先に仕事をしてしまうようでしたら…私にはどうしようもありませんね」
「あ、ありがとうございます!」
「いえ、私は認めるわけにはいきませんので、決してそのようなことはなさらないでくださいね」
 ブルーノがいたずらをした時のような楽しそうな顔で言うものだから笑ってしまった。
 なんだ、本当にこの町はいい人ばかりだ。

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