朱の月

2話‐3‐

 すぐに現れたブルーノの支えを断り、意識を失ってぐったりしているレオナを抱きかかえた。触れている部分がすぐに熱くなるほど、布越しでも彼女の体温が異常なほど高いことに驚いた。
 なぜ、今まで気付かなかったんだろう。
 今となっては、彼女の荒い息遣いや火照った顔、額に浮かぶ玉の汗など、どれもが目に付くのに。
「今頃気付いても遅ぇんだよ。あたしの教えも守れねぇような自己中なやつに教えることなんてなにもない。さっさと出てくんだな」
 明白な侮蔑を乗せて吐き捨てたバレンシアの言葉になにも返すことができず、ただ黙って、先で待っているブルーノのところに行くため、部屋を後にした。
 彼に通されたのは、以前ファイが過ごしていたそこだった。長く誰も使っていないのだろうが、埃は一切見えないし花瓶の花も生き生きとしている。いつか自分が戻ってきたときのために、綺麗にしてくれていたのだろうか。
 ブルーノは水の入った桶や着替えを用意だけして、静かに部屋を去って行った。
 しわひとつないベッドに彼女を寝かせ、汗を拭いてやる。
 いつからだろう。いつから、レオナはこんな高熱を出していたのだろう。
 始めからではないはずだ。列車の中でも普通に会話をしていたし、アドルフのところにいたときも慣れないと言いながら魔術師と闘えていた。
 そこまでは問題がないとすると、その後になる。
 謎の魔伎と会ったときの彼女の様子はどうだった?
 思い出そうとして、どうしても思い出せないことに思わず嘲笑が漏れた。これだけ一緒にいたのに、なにも見ていないのか。
 別に彼女は知人でもなければ護衛対象でもない。互いが互いのために利用しているに過ぎない関係ではあるが、ファイには昔からバレンシアに耳にたこができるほど教えられていたことがある。
 “守るべき相手、仕えるべき相手。それ以外にも目を張れ。それがお前を守る最大の盾になる”
 言われた当初は、なぜそんな手間のかかることをしなければならないのだと、まったく意味が分からなかった。仕える相手のことだけを考えて、守って、それのなにがいけないのだと。
 しかし、長い間教え込まれたその言葉は呪いのように意識に埋め込まれており、彼女の元を離れた後も、無意識に教えを実行していた。
 そして正式に近衛兵士となってから、その言葉の意味を理解した。
 この国は王政だ。だからといって王族のことだけを考えて、王族だけがいい思いをしているようでは、いずれ貴族や国民から反発が起こる。初めは小さかった不満が時とともに肥大し反乱を招き、国が崩壊するというのも珍しい話ではないのだ。
 自分の周りの者すべてに気を配り、差別することなく対応するのはひどく骨の折れることではあったが、そのおかげで表立って敵対する者はいないし、自分だけでなく仕えている第二王子ヴァレリオの評判もいい。
 どうやらそのファイの姿にヴァレリオも影響を受けているようで、若干二重人格気味になってはしまったが“心を許してもいい者”と“王たる器を見せつける者”の区別は幼いころからできていた。
 周りに敵ばかり作っているバレンシアが言うのはどうにもおかしな気もしたが、彼女曰く、全員に味方してもらわなくても困らない仕事だからいいのだそうだ。
 その言い分には妙に納得したものだ。
「…ん……」
 ふと、苦しそうな声が上がり目を向ける。
 先程拭いたばかりの汗が額に浮かび、眉を寄せている。もう一度拭いてやろうと手を伸ばす。
「ご…め、なさ……」
 荒い息遣いの中でも、はっきりと聞こえた謝罪の言葉だった。
 動けないでいると、閉じた目から涙がゆっくりと流れ出した。さらに言葉が続けられる。
「ごめ……ごめんな…さ…い……アド…フさ…」
 彼女はアドルフを救えなかったことを悔いているのか。
 考えてみれば、彼女は戦いに慣れた兵士でも、覚悟を決めさせられた専魔師でもないのだ。自分の目的のためとはいえ突然戦闘を強要され、たとえ自分が手を下したわけでなくとも目の前で人が死ねば、心に傷を負うこともあるだろう。
 それでもファイやランカの前では泣かなかった彼女が、熱で心身が弱まっている今、涙を流している。おそらく、必死に耐えていたのだろう。
 責任は自分にある。
 本来はレオナを連れて行かず、ひとりで向かうはずだったのだ。ただ思いつきで魔伎である彼女も同行させようとしただけだ。
 アドルフを守れず、死なせてしまったのは自分なのに。
「俺だよ。…悪いのは、俺だ」
 目の前で、寝ているのに泣いて謝罪を続ける彼女の目をそっと指でなでる。ぬぐった涙がすぐに流れてくることに、どうしようもなく苛立った。
 守ると言って守れなかったアドルフ。圧倒的な差を見せつけられたガジェットとの戦い。
 それがあったからレオナにまで気が回らなかったなんて、言い訳だ。
 側近となったからには、どんな時でも冷静に状況を見極めなければならないと、そう、自分に誓ったのに。
 自分の未熟さを、余計に思い知らされた。


 翌朝、日の出とともに目覚め、簡単に身支度とストレッチをし、最後にゆっくりと心を落ち着かせてから、バレンシアの部屋へと向かった。
 ノックをし、声を掛けても返事はない。
 特に気にせず開いた扉の先では、バレンシアがシャツ一枚というラフすぎる服装で、ベッドの上に片膝を立てて座っていた。早朝、突然の訪問であるのに隙はまったくない。
「おいおい、レディーの部屋に勝手に入るなんてどういう了見だ?」
「師匠がレディーだなんて、世の中の女性に失礼ですよ。ノックはしましたが、師匠が返事をされなかったんですよ? そもそも師匠に返事をされた記憶がありません」
「そりゃそうだろ。した記憶がねぇ」
「なら勝手に入るしかありませんので」
「んー、まぁいいけどよ。で? なんでいるんだよ、坊や? あたしは昨日、確かにさっさと出てけって言ったよなぁ」
 軽い口調だったが、威圧感のある声色。
 昨日のレオナの件で完全に軽蔑したのだろう。他人を見るような、凍りつきそうなほど冷たい目だ。
 ファイは軽く息を吐き、真剣にバレンシアの目を見返した。
「未熟さはよくわかっています。技術だけでなく、精神面についても」
「だから帰れっつってんだよ。お前なんか弟子じゃねぇ」
「そういうわけにはいきません」
「…何様だ、お前」
 声のトーンが落ち、背筋が丸くなる。かなり怒っているときの癖だ。
 鋭い視線に過去のトラウマが蘇ってくるが、今回はどうしても引けない。
「側近だか近衛兵士だかになって、偉くなったつもりかよ? 調子乗ってんじゃねぇ!」
「確かに自信過剰になっていたかもしれません! だからこそ、もう一度自身の力を見極めたいのです!」
「なんのために!」
「国のために!」
 一瞬もためらわずに言い切った。
 このままヘヴルシオンをのさばらせる訳にはいかない。やつらは必ず国にとって脅威になる。国の、ヴァレリオの敵になる者は自分が払わなければならない。
 国のためというよりもヴァレリオを王にするため、という方が正しい気もするが、遠回りに国のためだ。間違ってはいない。
「師匠もご存じでしょう? ――ガジェット・トリスを」
「あの殺し屋か? それがなんだ」
「その男がヘヴルシオンに付いています。私は、やつに手も足も出ませんでした。それでは国を守れないのです!」
 もう一度言葉を強めて念を押す。
 バレンシアが王宮に仕えていたときからガジェットの名は聞かれていた。金さえ払えばどんなことでもやり、またそれができるほどの腕も持っていると。
 しかし逆に捉えれば、金でしか関係を築かない男だ。無償での信頼関係で築くような主従関係は一切持たないはずだった。
 ここ数年名を聞かないと思っていたその男がヘヴルシオンについており、対峙した時の口ぶりから、雇われの身ではなく自身の意志で協力しているのは間違いない。
 彼女も何度か剣を交えたことがあるらしく、あの男の危険度は重々理解しているはずだ。
 ガジェットの名を出したことで少し興味を引いたのか、顎を撫でながら思案する。
「ふーん……あの男がねぇ…。仕方ねぇ、今回はあのかわいこちゃんに免じて引き受けてやるよ」
「――ありが」
「ただし! 昔とはわけが違うんだ。ひとつ、報酬をもらう。ふたつ、容赦はしねぇ。これが呑めるってんなら、な」
 バレンシアが指を立てながらゆっくりと口角を上げた。完全に悪い目をしている。
 のちに請求されるであろう莫大な報酬と、壮絶な特訓を想像して血の気が引いた。
 この人ならどこまでも非道になれる。さらに言えば、身近で親しい者のほうが容赦なく。
――そんなこと、覚悟の上だ。
 唾を飲みこみ、無理やり笑みを浮かべる。
「―― わかった。朝飯食ってから、開始だ」
「よろしくお願いします!」

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