朱の月

2話‐1‐

 列車を乗り継いでセラルト領に着いたころには、すでに日付が変わっていた。この町に詳しいらしいファイが迷わずに慣れた様子で宿を取るのを、どこか上の空で見ていた。
 なぜか全身の疲労感と眠気がひどい。
 ファイが少し呆れた様子ながらも手を差し出して案内してくれなければ、部屋に辿りつけなかっただろう。
 ベッドに座らされ、明日の予定を簡単に聞かされるが、特に内容を理解しないまま頷いていた。
 ファイが部屋を出て行った記憶もなく、重力に身を任せてベッドに倒れこんだ。
 なぜこんなに疲れているのだろう。慣れない列車の旅のせいか、久しぶりに魔術を駆使して使ったせいか、あぁ、アドルフのことも精神的に余裕をなくさせているかもしれない。
 そんなことを考えながら、意識は底に沈んでいった。


 ノックの音がする。いや、ノックというよりも扉を叩いている、と言ったほうが適切かもしれない。
 誰かが訪ねて来ているのだろうが、身体が重い。意識がはっきりとしない。
 しばらくその音が続いたと思うと、急に静かになった。なんだったのだろう。レオナがもう一度意識を沈めようとしたとき、頭に鈍い衝撃が走った。
「いっ…たい…」
「痛い、じゃない。お前、昨日の俺の話聞いてなかっただろ」
 衝撃と声に意識を呼び戻され目をゆっくりと開くと、そこにはファイの姿があった。
 しわのない服に、しっかりとくしの通してある髪。相変わらず完璧に隙がない。
 見慣れたはずの彼の姿に違和感を覚えていたら、はっと気付いた。近衛兵士の制服でなく、私服に変わっている。やはり王都以外で制服を着ていると目立つからだろうか。私服でいると、本当になんの威厳もオーラもない男だ。
 彼を見ながらそんなことを考えているうちに、だんだんと意識が覚醒してきた。
 身体を起こし、布団を肩までかけて壁際に後ずさる。
「な、ななななんで勝手に入ってきてるの!」
「時間になっても出てこないし、ノックしても叩いても怒鳴っても起きないからだ」
「貴婦人の部屋に勝手に入るわけには、とか言ってなかった!?」
「これは例外だろ」
 堂々とするファイに言い負かされる。
 起きたばかりとはいえ、状況はしっかりと認識できている。悪いのは、レオナだ。
 それでも身内でもない年頃の男に寝起き――寝顔までも見られたと思うと恥ずかしさがこみ上げ、文句を言えない悔しさから、ただにらみつける。
 反論できないと理解したレオナを見て、腕を組んで聞いてきた。
「で、今日の予定は?」
「よ、予定?」
「昨日俺が丁寧に何度も伝えて、お前も確かに頷いていたんだが…、」
 そういえば言われていた気がする。
 しかし疲労感と眠気に耐えるのに必死で、なにを言われたかまったく記憶にない。それでも目を閉じて記憶を呼び覚まそうとするが、努力も虚しく。
「…聞いてませんでした…」
 控え目に告げると、盛大にため息をつかれた。それでも声はあまり責めてない。
「俺は師のところに行く。そこから先がわからないから連れて行こうと思ってたんだが…、無理みたいだな」
「す、すみません…」
「まぁいいさ。場所をメモしておくから、準備ができたら来てくれ」
 ファイは脇にあった紙とペンで、簡単な図を書いて置く。
 入ってはきたものの女性の部屋にはあまり長居したくなかったのか、早くそこへ向かいたいのか、じゃ、と声を掛けるとすぐに出て行った。
 彼がいなくなったことに安堵し、身体から力が抜ける。
 思いのほか汗をかいていたようで、服や髪が身体に張り付いてくるのが気持ち悪い。まずはシャワーでも浴びようと、ゆっくりと立ち上がった。






 久しぶりに訪れたこの地は、以前となにも変わらずファイを温かく迎えてくれた。
 ここを出て行ってからある程度の年月は経っているし、多少外見や雰囲気などが変わったと思うのだが、ファイを見かけると誰もがおかえり、と声を掛けてくれる。故郷という故郷がない自分には、少しくすぐったいほど温かい。
 今、ファーレンハイトはヘヴルシオンの暗躍によって事件が絶えず起こっている。すべてがそうとは言えないが、ヘヴルシオンが出てくる前よりも格段に増えたのは間違いない。
 にも関わらずこの地の人々に不安が見えないのは、やはり彼女の力だろうか。
 セラルト伯爵も、以前は自身が領主として目を張っていたそうだが、彼女が来てからは安心して領地を離れ、王都で大半を過ごしていると聞いた。
 彼女のことを思い出して、気分が落ちてきた。
 実力はある。伯爵からも王家からも信頼されている、師であることを誇るべき彼女。
 しかしどうしても会いたくない。会いにきているのに矛盾しているのは承知の上だが、だんだんと彼女に近づいていると思うと今にも逃げ出したい衝動に駆られる。
 不在だったらいいな、いやそれでは意味がない、でも会いたくない、などと葛藤しながら、彼にしては珍しく重い足取りで屋敷へと向かう。
 林を背後に構え、悠然と建つセラルト伯爵邸がだんだんと目前に迫り、それに比例するように鼓動が早くなって冷や汗すらかいてきた。
 ゆっくりと深呼吸をする。
 大丈夫だ、落ち着け。彼女とはもう何年も会っていないし、その間に近衛兵士やら側近やらになって自分だって様々なことを経験してきたのだ。昔の自分ではない。過去は忘れろ、自信を持、
「ファイ坊ちゃん?」
 背後から与えられた自分を呼ぶ声に、心臓が跳ねた。
 冷静を装いながらもぎこちなさが浮かぶ笑顔を張り付け振り返ると、声の主がひとりで(つまり、彼女を連れずに)そこにいたことにひどく安心し、すぐに懐かしさがこみ上げてくる。
「ブルーノ、久しぶり」
「いやぁ…本当にファイ坊ちゃんでしたか!」
「立派になっただろう?」
「もちろんですとも」
 長年伯爵邸の家令を務めているブルーノは目を細め、ファイの記憶よりも深くなったしわを刻んだ。
 彼に案内されるままに応接間へ通されると、すぐに茶を用意された。屋敷のことはずべて把握しているし、客という立場でもない。
 彼にも仕事があるだろうと断ったのだが、
「不要なことはわかっております。ただ、坊ちゃんとお話しさせていただく口実にさせてもらえませんでしょうか」
 と言われてしまえば無理にやめさせることはできない。
 それに、話をしたいのはファイも同じだった。


 彼の淹れてくれた茶を飲みながら部屋を見渡す。
 少し骨董品が増えたように思う。昔から伯爵は骨董品を集めるのが好きで、しかもその趣味が悪い。本人曰く、素晴らしい芸術品の数々は家族には受け入れられず、こうして本邸の応接間に置かれているようだ。
 ふと、屋敷に来てからブルーノにしか会っていないことに気付いた。伯爵はほとんどを王都で過ごしているから人が少ないのは想像がつく。しかし彼だけというのはおかしいのではないか。
 ブルーノがカップに茶を継ぎ足しながら、口を開いた。
「今、ほとんどの者が王都へいっております。なんでも近々、旦那様が大規模なパーティーを開かれるとか」
 尋ねる前に答えを言われてしまった。
 そういえば昔からそうだった。彼になにか聞こうとすると、こちらが考えていることがわかっているかのように先に答えるものだから、あまりブルーノに質問をした記憶がない。
 そのやり取りも懐かしい。
「せっかく坊ちゃんがおかえりになったというのに、申し訳ございません」
「いや、特に連絡もしないで来てしまったからな。伯爵の留守に訪ねてしまって、こちらこそすまん」
 言いながら彼に座るよう促したが、そんなことはできないと断られてしまう。
 自分は身分や立場などはまったく気にしないのだが、彼が穏やかに、嬉しそうに笑っているものだから、それ以上は強要しなかった。
「旦那様は、坊ちゃんはいつでもおかえりになっていいのだとおっしゃっておりますよ」
「ありがたいが、俺はこの家の者ではないからな」
 そう言うとブルーノがどこか寂しそうに笑った。彼にそんな表情はさせたくないが、この一線だけはどうしても譲れないと誓ったのだ。
 そしてブルーノと、屋敷を出ていってからのこと、最近の領地の様子、伯爵のこと、ブルーノの体調のこと、そんな他愛もないことをしばらく話した。本来の目的である彼女のことには触れないように。
 そんなファイの様子に気が付いていたのか、脈絡なくブルーノが笑う。
「バレンシアさんは、巡回に行っておられますよ」
 彼女の名を聞いただけで悪寒が走った。
「…そんなこと聞いてないが」
「坊ちゃんが連絡なしに、旦那様のお留守でもお見えになるとしたら、バレンシアさんしかございませんでしょう?」
 それはそうだ。
 考えなくてもわかるようなことを言われ、さらには温かい目でこちらを見るものだから、自分が恥ずかしくなる。
 巡回か…、以前と変わらぬ時間とルートなら、もう間もなく戻ってくるはずだ。ブルーノと話していたことで落ち着いたし、心の準備もできたと思う。
 まだ残っている不安を紛らわすために、ブルーノにおかわりを頼もうとお茶を全部飲み干した時だった。
 大きい音を立てて扉が開き、そこには会いたくて会いたくなかった人物が、相変わらず強気で嫌な笑顔を浮かべて仁王立ちしていた。
「よーう、ファイ坊。ずいぶんと久しぶりじゃないか」

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