朱の月

7話‐3‐

 姫巫女祭は、男が自分だけの女――姫巫女を捜すためのお祭りである。
 数ある試練を乗り越えて自分だけの姫巫女を見つけた男と、その人だけの姫巫女になれた女は生涯幸せに暮らせると言われている。
 その試練とは誰よりも姫巫女のことを知っている者ではないと越えられないものであり、しかし女のことを知っていなくとも、自分の趣向などと似た者のところに辿り着けるのならばそれは自分だけの姫巫女であるのだ、とも言われている。
 だから恋人がいてもいなくても、特に若い男女には重大な催事であるのだが、自分にとっての唯一の人を見つけるという内容から、男女とも参加できるのは一度と決まっている。
 そして女が決められた場所について男が町の中心、社のある場所から姫巫女を捜しに一歩踏み出した瞬間から他の人間は手出し無用というのも暗黙のルールになっていた。




 着いた湖には、ドレスが汚れないように控えめに布が敷かれているだけで、他に椅子があったり屋根がついてる場所があったりするわけじゃなかった。
 今日は晴れだからよかったけど、雨だったらどうするんだろう。まさか濡れて待ってろとか言わないよね。
「まぁいっか、良かった」
 考えるのもめんどくさくなって、とりあえずそこに座ってみた。ドレスの裾が広がって汚れてしまわないように膝下に抱える。
 湖は底まで透けて見えるのに深い緑で、風でゆらゆらと揺れる湖面は光を受けて輝いている。
 話によると、女の人が位置に着いた頃を見計らって男の人が出るらしいから、きっとまだまだ誰かしらが到着することはないんだと思う。というか、誰も辿り着けないーなんてこともあるらしいから、待ちぼうけもありえるけど。
 町から離れたここでは人の声が全くしない。なんとなく水の音と鳥とか風とかそういう自然の音がするだけで、すごく静かだった。
 あぁー、そっか、今私1人なんだ。周りには誰もいない。
 膝を抱えた。
(やだな……早く誰か来ないかな)
 一人は怖い。淋しいんじゃなくて怖い。危害を加えられるんじゃないか、とか幽霊が、とか思ってるんではないんだけど、どうしても一人でいることが不安でたまらない。
 経緯はどうであれ、自分で決めて来たんだからやっぱり家に戻ろう、とは思わない。町の人にとってどれほど大切な催事なのかは分かってるから、私のせいでそれを台無しにはできない。
 おばあちゃんも、私が参加を辞めないって分かってるなら事件のこと言わなくてもよかったのに。
 ううん、おばあちゃんは何も知らないでいたほうが私によくないと思って言ってくれたんだって分かってる。心構えをしてるのとしてないのでは全然違うもんね。
 隣町には魔伎が1人だけいて。私は会ったことないけど、おばあちゃんから聞いたことがある。なんでもおばあちゃんの幼馴染って呼べるような関係の人らしくて、だからその人が魔伎だって知ってて、私が魔伎だって分かったって言ってた。
 その人は早くに奥さんを亡くしてずっと一人で暮らしてて、足も不自由だからおばあちゃんがちょくちょく会いに行ってた。それが昨日のことで、いつもより帰りが早いなーって不思議に思ったのと、表情がなんとなく暗いのが気になってたとこだった。
 そしたら、その人が行方不明だなんて…おばあちゃん、だから言い淀んでたんだな。
 最近のファーレンハイトでは行方不明者とか殺人がちょっと多くなってるって結構噂になってたけど、まさか隣町っていう近いところで、しかも親しい人が被害に遭ったかもしてないなんて、口にしたくないに決まってる。
(あーもう、早く誰か来てー……)
 なにをしていれば気が紛れるだろう。寝ちゃえば、起きたら大分時間も経ってるだろうし怖さなんて全く感じないとは思うけど、さすがに野外で湖の近くで地面の上で、では寝れない。心情的にも、それ以外でも。
 歌でも歌おうかと口ずさみかけて、それじゃもし近くまで偶然に来た人がいたら気付かれちゃうかもしれないと思ってやめた。



 歌うのはやめて、でもなにかしてないと落ち着かなかった私は、考えに考えた結果地面に絵をかくことにした。絵っていってもただの絵じゃなくて、時間を稼げるように絵しりとりをしていた。
 始めは簡単なもので簡単な絵をかいてたけど、だんだん楽しくなってきて凝ったものをかこうっていう妙な挑戦心が生まれてきた。
 太めの木の棒だと細かいところがかけないから細いのをわざわざ探して来て、結構細部まで気にして。
 って言っても所詮大して上手くもセンスもない私の絵だからたかが知れてるんだけど、それでもなかなかコツを掴んでるんじゃないかな?上手い下手じゃなくて、伝わるか伝わらないかだから!
 他の人に分かるもんなのか見てもらいたいけど、それはそれで恥ずかしいんだよね。だってもし私のところにエマル……じゃないかもしれないけど、誰か来たとして、いくら待ってるのが暇だからって一人で真剣に絵しりとりしてるって、私もいい年な訳で、うん。
 ずっと消そうか迷いながらも着々と増えていく絵に満足していた時だった。
 がさっと草を踏むような音が突然耳に入った。
 さっきまでここには私しかいなくて、祭りの参加者が到着するには早すぎる。
―― 昨日、隣町の魔伎が行方不明になったそうだよ。
 おばあちゃんの言葉が急に浮かんで悪寒が走った。一人でこんなところにいるなんて、狙ってくれって言ってるようなものだもん。
 でも、魔伎だから私が狙われるなんてことはないと思う。普通魔伎だって分かってたら狙わない。個人差はあっても、魔術が使えるような 攫うのも殺すのも手間がかかりそうな人間をわざわざ狙う意味が分からないから。
 だからこれはなんでもない、きっとなにか動物とかそんなのがいただけ!
 自分にそう言い聞かせて気にしないようにしたけど、気にしない気にしないって念じてる時点で考えちゃってるんだよね。実際にその通りで、見てるのも怖いけど見ないほうが怖いからって音がした方を凝視する。
 まだなにも見えないけど、絶対なにかいる。
 自分で音が聞こえるくらい鼓動がうるさい。
「見つけた」
 男の人の声だった。
 見つけた? 私のことを捜してた…?
 現れたのは若い男の人だった。すらりとした長身に全身を覆う外套を纏って、頭までフードを被っているから口元しか見えないけど――街の人間じゃない。街の人はこんな外套もってない。
 警戒している私の様子を伺っているのか、姿が見えてからは近づいてこようともせず、言葉も発さなかった。視線は見えないけど、すごく見られているのは分かる。
「……お前、魔伎だな?」
 心臓が跳ねた。
 私が魔伎って知ってる。じゃあ、この人が隣町の魔伎を…それだけじゃなくて今国内で起こってるっていう事件に関わってる人物ってこと?
 私になにをするんだろう。なんで私を捜してたの? ――殺されるのかな……。
 そう思った途端恐怖が急に現実味を帯びてきた。
 街を離れた湖に一人で、大声を出しても気付いてもらえるか分からない。ドレスだから走って逃げようとしても絶対捕まる。魔伎だからって、魔術は使えない。
「まさかこんなに時間がかかるとは思ってなかった。見縊ってたな」
「私になにするつもり…!?」
 震える声を張ると、少し雰囲気が変わったように感じた。怪訝そうな、疑問が浮かんでるような。
「なに? ただお前を迎えに来ただけだ。ちょっと寄り道をしてしまったが」
「迎えなんて待ってない! あ、あなた誰よ!」
 舌打ちが響く。苛立ちを抑えられなかったのか、荒々しい手つきで外套を脱いだ。
 無造作に整えられている短い黒髪。すっと筋の通っている鼻。鋭さを感じさせる瞳は濃い茶色。
「待たれてなくても、俺はお前と約束したからな。レオナ」





 真っ直ぐ見つめてくる瞳を直視できなくて、視線を落として失笑した。
「な、なに言ってるの? 私はレオナなんて名前じゃない…私にはシェリーって名前が、」
「俺がお前を見間違う訳ない。髪も瞳も口も鼻も手も声も仕草も、レオナだろ」
 シェリーは無意識に後ずさった。
 なにを言っているのか分からなかった。自分はシェリーで、レオナではない。この男なんて知らない。
 知らないはずなのに。
「まさか街全体に結界を張っているとは思わなかった。ビビアーナもそんなことができる状態にはないだろうと言ってたし、俺もそう思ったからな。おかげで時間がかかった。あとでしっかり謝罪してもらわないとな」
 態度も言葉もシェリーを責めているものなのに、その目だけはどうしようもなく甘かった。安堵と歓喜が隠しきれていない、不器用な目。
「やっと街に入れたと思ったら祭りだから余所者はでてけとか酷い扱い受けるし、………まぁ来たらそんな恰好してるお前を見れたわけだから一概に災難だったとは言えないんだが……」
「……知らない、知らない! 私は違うっ!!」
 嫌だ。この男を見ていると頭が痛くなる。
 目の前が赤くなる。寒気がしてくる。
 怖い。
 でも、彼を見ると胸の奥からなにか熱い感情が湧き出てくるのも感じていた。鼻の奥が熱くなって、そのまま涙が零れ落ちそうな。
「…おい、レオナ、」
「レオナじゃない!!」
 訝しげな目をして近づいてくる男から距離をとろうと更に一歩下がった時、左足の踵が滑った。
 とっさに視線を背後に向けると、いつの間にこんなに来ていたのか、もう湖の淵にいたようだった。身体の傾きを堪えられない。
 既視感を覚えつつ、ドレスが無駄になっちゃったな と覚悟を決めていたが、力強い手に引かれ、落ちることはなかった。代わりに男の腕の中にすっぽりと納まる。
「――っや!」
 逃れようと胸を押したものの、男はびくともしなかった。それどころかより強く抱きしめられてしまい、身動きが全く取れない。
 顔を首元に埋められる。びくっと反応してしまったが、男は意に介さないどころか唇を押し当ててきた。ただそれだけなのだが、首元に当たる吐息が溶けてしまいそうなほど熱い。
「――………った……」
 男がなにか呟いている。
 小さくて聞こえにくい。
「…よかった………生、きてて……よかった………」
 なんとか拾ったその声があまりにもか細くて震えていて、抵抗するのも忘れて驚愕した。
 だって、泣いているように聞こえる。
 なんと声を掛けていいのか分からず、――いや、そもそも声を掛ける義理もないのだ。でも彼の背に手を回してやりたくなって、ふと我に返って突き放した。
「やめてよ! 街の大切な祭りを勝手に踏みにじって…私はあんたなんか知らない!!」
 声を荒げると急に空気が痛くなったように感じた。
 原因は目の前の男だ。頑なに知らないと言い張るシェリーをついに怒りを滲ませた目で睨んでいる。
「お前、本気で言ってんのか?」
「本気もなにも事実でしょ!」
「あぁ、そういえば記憶がないんだって? 親もいなくて可哀想だって同情されてたな」
「同情なんて、」
「されてないって? じゃあなんなんだよ。記憶がないって嘘ついて周りに優しくされてそれに安心して、お前はそれを求めてたんだろ? 俺らに見つからないように随分と手間のかかった結界まで張りやがって」
 嘲笑して吐き捨てる彼は、先程までとは別人のようだった。
 暗い光を宿す茶の瞳はシェリーを真っ直ぐに見つめ、吸い込まれそうに強い。
(頭…痛い……)
 身体が微かに震える。頭痛はさっきから治まらない。視界がちかちかして倒れそうになるが、この男の前で弱い部分は見せたくなかった。
 必死に無表情を貫く。
「記憶がないなんていうのも逃げてるだけだろ。兄のことをどうしても捜したいからとか言ってたよな? それってこの程度だったんだな。それともなんだ、ちょっと会えただけで満足だったってか? 軽い覚悟で言ってんじゃねぇよ」
 胸にすっと鉛が落とされたようだった。
 なんで傷ついている自分がいるのかも分からなくて、ちょっとした混乱状態に陥っていた。彼に冷ややかな目を向けられて、責めるような言葉を浴びせられるのがつらい。違うんだと否定したいのに声を出したら泣いてしまいそうで、隠れるように目を伏せた。
 頭が痛い。ガンガンと金槌を打ち付けられているんじゃないかと思うくらいで、気を抜くと意識が飛んでしまいそうに。
(気を失ったほうが楽になれるかな)
 少なくとも、目の前の彼の怒りと落胆と悲しみを映した目から逃げられる。
 頭を抱えて固く目を閉じる。頭痛が治まらない。
―― 愉快そうに歪む小さな口。なにも映さないすみれ色の瞳。真っ赤な血。崩れ落ちる細い身体。
「おい、」
「っやだ!!」
 様子がおかしいシェリーに差し伸べてくれた手を反射的に払ってしまったときに彼の目を見ると、堪え切れずに頬を熱いものが伝っていった。

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